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烙印を消す命が 歴史を書き直す

以下、ほとんど id:Louis氏への私信ですが、私の『∀ガンダム』話に興味のある方はどうぞ。いつものようにいきなり始まり彼方で終わる、取り散らかした文章ですが。
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そもそも、『∀ガンダム』以後、宇宙世紀だの非宇宙世紀だの公式だの非公式だの富野だの非富野だの、そういう“枠組み”に意味は無くなっているのだと私は考えています。
富野由悠季が『∀』において、黒歴史を用いてやった事は
全てをフラットにする事
でありました。私はそう理解しています。
いみじくも、監督本人が制作の初期段階で語ったように“全てのガンダムを含有する、そして肯定する”(というかこの時点では、絶対いつものように嘘を言ってるんだと思ってましたが)という作業。しかし普通にやってはそんな事が出来る筈がないわけです。どう考えてもそこに生きている人間の造りからして違い、世界も違いすぎている。破綻は目に見えているのですから。
しかしさすがに監督は、普通ではありませんでした。
それがすなわち、全てを統合し、黒歴史の名のもとにフラットにする事。
作中でもはっきり演出されているように、作中における黒歴史メタフィクションを含めて考えない)の内部には、GやWやXが含まれています。すなわち、そういった文明の変遷が何度も起きるほどに黒歴史のスケールは長いと仮定できます。勿論、厳密に考えればそれこそ数十億年単位になるわけですが、まあそれは本質論ではないので置いておきましょう。
問題は、果たしてこの黒歴史というスケールの中に含まれるのは、GやWやXや、ファンの間でかすまびしくその認定が問題となるいわゆる“非宇宙世紀もの”だけであるのか。もう少し広げて、いわゆる“非トミノガンダムを広く統合する為だけのものだったのか?
私は、そんな甘っちょろいものではないと考えます。
GやWやXなどを含有するという事は、その他の多くのものも含有する可能性があるという事です。
そう、ゲームにマンガ、果ては同人誌まで。
それら全て、ガンダムに関するあらゆる作品を黒歴史の名の下に認定する。それこそが、富野由悠季の本当の狙い(∀がそれをやる為の作品だった、という事ではなく、必要に迫られて∀の中で行った方法論の一つとして)であったと私は考えます。
それまでの枠組みを破壊し、一つの大きな枠組みを作ってしまう事。
枠組みとはそれすなわち、価値観であります。
公式か非公式か?
富野か富野でないのか?
宇宙世紀かそうでないのか?
その価値観を破壊する事こそが、“黒歴史”の本質であったのではないでしょうか。
具体的にどういう事かといえば、私の解釈の中では、いわゆる「一年戦争」は黒歴史の中で何度も起こっています(笑) それこそつまり、ゲームの数だけ、マンガの数だけ、果ては同人誌の数だけ。
だからなにもかも、公式。バンダイだったりサンライズだったりという事ではなく、ガンダムの名のもとに、公式。
さてそうすると、一体どんな事になるでしょうか。
オフィシャルだったり宇宙世紀だったりという価値観が消え、全てが黒歴史ガンダムの名の下にフラットになれば、残るのはすなわちその作品固有の力であります。
……勿論、現実には色々な力学が働くのでそうそう単純な図式にはなりませんが。
しかしそれでも、これは非常に恐ろしく、そして刺激的な試みといえます。
商業的なものであれ文学的なものであれ、その作品の本質の価値が問われる。問題は“どういう立場で作ったか”ではなくて“どんなものが出来上がったのか”なのです。ていう話は実はプロ作品の本然にも繋がるわけですが、その辺もチクリと皮肉を込めてるような気も微妙にしますが。
ここで富野さんが偉い(凄い)のは、そのフラットベースの中にちゃんと自分の作品も入れた事。特権によりそれらを保護する事なく、自分の作品ですら同一の地平線上に置いてみる。その上で勝負する、というのはなかなか出来る事ではありません。
それが自信なのか自棄なのかは、若干、判断のつかない所でもありますが。
実を言えば私も若い頃は『Gガンダム』否定論者でありましたし、そもそもそが公式か非公式かにうるさい性質でしたので、宇宙世紀云々にも随分とこだわりました。
しかし、『∀ガンダム』を見て以降、そういったこだわりが雲散霧消しました。……なんでしょう、憑き物が落ちた、とでも言うのかなぁ……(邪推ながら、富野氏自身も∀によって何らかの憑き物を落としたのではないかと思うのですが)もっと自由に見られるようになったというか。
ガンダムに限らず、恥ずかしながら、一つ、物の見方を変えるきっかけになった出来事であります。
ただまあ、作品としての技術・演出的な面でいえば、黒歴史という手法はベストであったとは言い難いと思っています。評価しているのは、その思想。全てをフラットにしてしまうという事。
この“怖さ”がわかるのは、ある意味では、ものを創る立場に居る人だけなのかな、とは正直思うのですけど。残念ながら、この断絶はなかなか埋まらないんですよね。でもその、“創り手”と“受け手”の断絶というのはある意味では必要なので、無理に埋めるものでもないのが、困ったところ。
とまあ色々とあっちこっち飛びましたが、要するに、全てをフラットにする事によって呪いを解いたというか。ただし、“全てを肯定するという事”は、必ずしもプラスの意味とは限らない、というわけです。
だから何だというと、創る方は自由になってはいるけれども、本当はもっと覚悟しなくてはいけないのではないか、という話。ある意味ではこれは、挑戦であるよなぁと。同時にやっぱり、嫌味も感じはするのですけれども。
なお、上述の文章は『∀ガンダム』という作品について語ったものではなく、『∀ガンダム』作中における“黒歴史”という方法論、についての話である事、御理解下さい。『∀ガンダム』という作品にはまた違った意味があったと思っていますので。
……まあ、前にもちょろっと書きましたが、“童貞捨ててオトナになろう、という話”てのが最も単純な面における私の解釈なんですけど。……ああでも、こうやって論を繋げると、オナニーの対象であったお姫様(ディアナ様)を地上に降ろすというエンディングは、黒歴史解釈と繋がるのかなぁ……ううむ、これは一考の余地ありかなぁ。
とか未だに∀をこねくり回してると、富野監督には、はり倒されるんでしょうが。……こればかりは、富野ファンを自称する身としては忸怩たる思いのする所です。
ちなみに、私の富野由悠季観はこんな感じ。
“若い人に自分のものを越えるような作品を創ってほしいなぁと思ってはいるものの、いざ創られたらその二歩も三歩も先を行ってやろうと考えてしまうそんな自分が好きなのだが、最近は自分の足下でオナニーに励むだけどころかそのオナニーを肯定するという風潮が出てきてどうしてくれようかと思っている人”。
……下品ですいません。