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(追加分)「萌え」を考察する

昨年ぐらいからずっと、現代に活動している創作家のはしくれとして「萌え」という概念(だと私は思っている)については一度は自分なりにきちっと考えて消化しておくべきだろう、と色々考察を繰り返していたのですが、一昨日書いた通りにようやく自分なりの解答めいたものが見つかったので、ちょっとその話。
やや長くなると思われますので、興味の無い方は適当に斜め読みするかすっ飛ばして下さい。
なお、以下の文章は
持論1:「オタク」とは蔑視的表現或いはそういった意味合いを含む単語である。
持論2:「オタク」という表現が広まるにつれ、そのネガティブなイメージをひっくるめて「オタク」を肯定・正当化しようとする動きが起こり、結果、「オタク」というカテゴリ内部の人々による外部の人々とはまるで無関係な自己肯定が発生。これを「オタクのスタイル化」であると仮定する。
という事を踏まえた上で書かれています。同意・理解は有っても無くても結構ですが、そういうつもりで読み進めて下さる事をお願いします。
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「萌え」とは自己防衛反応であるという事について
というわけで、「萌え」について、なのですが。
最初に断っておきますと、「オタク」という言葉を使うのは実は嫌いです。本当はあまり使いたくないのですけど、便宜上用いてます。御了承下さい。
最初から便宜上でいいのかという気もしますでしょうが、この話は便宜上でも繋がるので個人的には大丈夫。
というわけで、その起源については置いておくとして、オタクという言葉が存在し、カテゴリが存在し、オタク的なメディアが存在する今日この頃、しかしその実態はもっと曖昧模糊とした物ではないのか、というのが私の考えであります。
つまりですね、背広来たサラリーマンが電車でマンガを読み、深夜帯が多いとはいえアニメ番組がそこら中で放映され、主婦達は特撮ヒーローに熱狂し、古典の掘り起こし作業の中でアニメやマンガが次々実写映画となり、おまけフィギアが次々とニュースで取り上げられ、PS2がソニーの利益の屋台骨となっている時代に、オタク的であるという分別はもはや意味が有るのか? 既に無くなっているのではないか。
しかもこれは一過性のムーヴメントですらなく、日本の戦後世代(団塊の世代)が娯楽としてのマンガを延々引きずりながら今を迎えているように、完全に根付いているものであります。
もはやオタク的なものを蔑視するという行為は建前であり、それを本音で広言できる人は自ら視野狭窄を宣言しているものと同じと考えていいでしょう。
ところが皮肉な事に、その現状においてどういうわけか、「オタク的なもの」と「オタク」の間に乖離が生じています。何故ならば、オタクをスタイルとしてしまった人達が居るからです。
80〜90年代、広がりだしたオタク的なもののメディアがオープンになるにつれ、そういった物に対する蔑視的な思考も生じました(多分にこれには仕方のない面もあるのですが)。その中で本来ならば、そういったメディアがなんら問題のあるものではない、むしろ物によっては優秀なソフトである、という事を証明する作業が行われるべきであったと私は考えます(勿論、創作者の立場の中にはそういった行動をしていた人も多数居た事でしょう)。ところがそれに対して、オタクと呼ばれるカテゴリ内部に属する人達による、勝手な自己正当化が先鋭化しました。これを個人的に、「オタクのオタク化」或いは「オタクのスタイル化」であると思っています。
つまり、「これは我々のスタイルである。オタクである事は何も悪い事ではない。世間の目など気にするな」という理屈。
勿論別に、悪い事ではないのでしょう。しかしそれは、外部に納得させる事で初めて意味を持つわけであり、内部の人達が勝手に納得しても実効性を持つわけではありません。
やや変な例えになりますが、100回戦って一回も勝てない野球チーム(サッカーでもバレーでも何でも可)の選手やスタッフが、「俺達は本当は強いんだ」と言っていても、周囲の人々は誰も納得しないでしょう。
ですから本来なら何らかの形で周囲を納得をさせないといけないわけですが、内部の納得だけで解決してしまった。「俺達は強いんだ」という思いこみを自分達だけで事実として正当化してしまった。世間の目を無視する方向性を正当化してしまった。
これがオタクのスタイル化であります。
さて、オタク的なメディア・ソフトが日陰の存在であった頃には非常に有効であったこのスタイル化でありますが、現実が前述したような変容を遂げていくに従い、その意味を段々と失っていきます。
つまり、周辺の現実が肯定的になった以上、無理に自己正当化をしなくてもいいわけです。
オタクとそうでない物の線引きが拡張し、曖昧となる。境界線が不明瞭になり、混ざりあう。
というよりも、実はもともと線引きは曖昧なわけですよ。どこらかがオタクでそこからがそうでないのか? どこからがオタク的なメディアでどこからがそうでないのか? セーラームーンはどうだ?ドラゴンボールなら良いのか?ウルトラマンは? などなどなど。
ではその線引きを誰がしていたかというと、むしろオタク内部の人達が喜んでやっていたわけです。スタイルとは区別化であります。むしろ彼等は、そうしないといけなかった。「オタク文化」なんて言葉を好んで使う人達が、丁度その作業を率先して行っていたわけですね。
しかしスタイル化による線引きすら、浸食されていく。
そんな状況で出てきた言葉が「萌え」であったのではないか、と私は考えるのです。
無論、「萌え」という言葉・用法自体が90年代初期ぐらいから存在していた事は承知しています。しかし、これ程に広まって多用されるようになったのはここ数年であるという風にも理解しています。
ならばこの「萌え」とは、自己防衛反応ではないのか。
何故ならば、スタイル化したオタクとは一種のコミュニティであり、この現実の変容はそのコミュニティへの文化的侵略に他ならないからです。
文化的侵略を受けたコミュニティは、当然それに対して防衛行動を取ります。
そうしないと、コミュニティが崩壊してしまうからです。
このコミュニティを防衛する必要があるかどうかはさておき、これは当然の反応であります。そこで、浮上した言葉、キー、一種の偶像を言い換えてもいいかもしれないもの、それすなわち「萌え」であったのではないだろうか、と。
こう考えると、「萌え」という言葉の定義付けが非常に曖昧で不明瞭な事にも納得が行きます。
曖昧で不明瞭な方が便利なわけですよ。
それは符丁でありコミュニティ内部の共通認識であり、一種の合言葉であります。
例えば、「和風」という言葉は確かにある事物を差しているけれど実際にどんな事物であるのか定義づけるのは非常に難しい、という事と似た地平線上にあるといえましょう(て言うと過言かなぁ)。
とにかくこれは新たな線引きであり、しかも実態が不明瞭で大きな柔軟性を持っているがゆえに変化に対する応用性がある。
それ故に、とても有効に自己防衛機能を果たしたといえるのでしょう。
まあ、むしろ既にこれが新たなコミュニティであるという認識の方が正しい気もするのですが。
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……とか仕事中にふっと閃くのも考え物だよなぁとか思うわけですが(^^; まあこう考えてくると、なるほど私に「萌え」が無いし今ひとつ理解できないのも当然だよなぁと。「オタクのスタイル化」に対して否定的であり、そのコミュニティの外部に居る事を望んできた人間にとっては、そもそも必要が無いわけですから。
という事でまあ、必要不必要はさておき(出来る限り、理解、はしておくべきだと思うのです)、自分なりに「萌え」という概念の消化は果たせたのでありました。まあ基本的に、私が消化しやすい論理になっているのは、その為の考察であるという事で御了承下さい。あと、「オタクのスタイル化」に対しては否定的ではありますが、オタクをスタイルにしている人達を十把一絡げに否定・批判するものでは決してありません。
以上、久々に妙な長文でありました。