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続々・ふってわいた話

まあ、引っ張ったからといって大した事を書くわけではないのですが(^^;
時間に余裕のある時に書きたかったという事で。
まずは前回のように、コメントを引きつつ。


>としきさん
『感情移入のポイントもあるのではないでしょうか?男性は、男主人公を「仲間」として見、女性は「分身」として見る。「仲間」は「駄目」でも良いけど、「分身」は「駄目」じゃいけない訳です。
男性の「幼なじみ願望」というのは、母性を求める延長線上にあり、女性の「ミステリアスな男性を好む」のは、王子様願望の成れの果てという気がしますが、どうでしょう?』
あーその、感情移入のポイントというのは非常に納得です。確かに女性は、「分身」的な要素、濃いですよねぇ。そして成る程確かに分身だと、あまり美化されてるのもどうかと感じますが、あまり駄目でも困るわけですね。どちらかといえば、(自助努力で何とかなる)性格的な美点に集約されていく、と。
幼なじみ願望と母性のリンクというのは、やはり有るのだと思います。
ミステリアスと王子様願望ですか……ああでも何でしょう、女性の方が“立場の違い”というシチュエーションを好む傾向があるように思うのですが、物語にリアリティを持ち込もうとすると現実ではなかなか難しいその立場の違いを出す為に、「ミステリアス」という要素を持ち込んでいるのかなーというのは、何となくあります。と考えると、リンクはあるのかなーと。

>Louis
『その「ミステリアス」に関しては前にログアウトで村社会である日本特有のエトランゼ信仰、みたいなコラムを読んだような。』
村社会でエトランゼというと、“希人”の話と理解していいのかなー。とすると、祝福を与えて去るもの、であったり、知識や技術を与えて社会に変革をもたらすもの、である訳なのだけど。こじつけるなら、極めて主観的な視点において、主人公(女)に新しい世界を拓く存在、という言い方は出来るかもしれないが。

>なくまさん
『「ふってわく」話ですが、考えても女性側の立場がわからんちん。
そういえば「ふってわいてない」設定としては『異性の幼なじみ』が代表的だと思いますが、男性は恋愛対象の候補に必ず名乗りを上げるのに対し、女性は恋愛ではなく『兄弟のような』位置づけでヒロインの恋愛を助けてくれる友人パターンも多い気がします(幼なじみの彼はヒロインを好きだったりする)。
多分、「幼なじみ」観に関して言えば、
「親しい異性」「恋愛の対象」
の線引きの問題なのではないかと思います。男性はこの線引きが不透明なのに対し、女性は割とこの区分けがあるのでは無いかなーと。逆にそれ故に、「今まで何とも思ってなかったアイツに急にドキドキするのは何で?」というシチュエーションが成立するわけでありますが。
というか、区分けをした上で描いた方が、女性向けの場合は書きやすいという事なのかなぁ……その辺はちょっとわからないですが。
変に生臭い話になるのであまり詳しくは書きませんが、根幹的な所ではおそらく、男女の微妙なセックス観の違いというのがあるのだろうなーとは思うわけで。
−−−
ところで“ミステリアス”の件なのですが、よくよく考えると今回一番最初に持ち出した“異世界からの来訪者”が恋愛の対象になる場合は、それが宇宙人だろうが女神様だろうが、ある程度のミステリー性を持ち合わせるわけで、とすると男性向けでも“ミステリアスな美女”というシチュエーションは成り立たなくも無いのかもしれませんなー。
まあこの辺りは、繋がらなくもないかな、程度の話ですが。
ちなみにエトランゼの話で行くと、恋愛云々は関係なくなりますが、本当は『ドラえもん』を持ち出すべきなのかな、とは思います。まあ、『ドラえもん』はファンも研究している人もかなりディープに多いので、気軽に持ち出すのもちょっと怖いのですが(^^;
児童向けという要素はあるにしても、『ドラえもん』『ハットリくん』『おばけのQ太郎』辺りの構造は明らかに、日本古来の希人のシステム論であるよなぁと。
根っこの所での、のび太のモチベーションは、“予定された未来の不幸からの脱出”なんですよねー。しずかちゃんは元来、目標ではあるものの目的ではないわけで。これは更に話を拡大していくと、「恋愛の成就」よりも「ヒーロー性の確保」の方が重視される少年マンガ的世界観に繋がっていくのかな、と思うわけですが。
これは明確に男女それぞれ向けで逆な所だと思うわけですが、「ヒロイン性の確保」は「恋愛の成就」という前提が必要な気がするのですよね。ところが「ヒーロー性」というのは実は割と、そういうものを振り捨てた所に存在する。
無論、ヒーローにはヒロインとなる存在がつきものでありますし、恋愛が付随する場合は多いわけですが、実はこれはあくまで“付属品”であって、“必要条件”ではない。逆に言うと、恋愛の要素を外した時にも成立しなければ、ヒーロー性とはいえない、というのが有るのだと思います。
これは、その是非はともかくとして、ウルトラマンだったり仮面ライダーだったりを一つの核にした日本のヒーロー観に「最後の最後で、私的な全てを振り払ってヒーローである事に準じられるか?」という問いかけが常に内在しているからであると考えますが。
(※例えばこれの典型的な例が、『ウルトラセブン』。まあこの作品まで行くと、ヒロイズムという名のエゴイズムについての話になってしまうのですが)
要するに実はだから、「ヒーロー性」と「ヒロイン性」というのは似ているようで大きく違っていて、場合によっては動機付けが相反してしまったりもするという事なのですが。例えばこの辺りは、「少女ヒーロー物」というジャンルが広がりそうで広がりきらない理由の一つではないかな、と。そういう点で、実はちゃんと読んだ事も見た事も無いのですが、『セーラームーン』というのが今なお高い評価を受けているのは、恐らくはそういう所の摺り合わせに成功してるからなのかなーと。
……て、なんで、ヒーロー論になっているのでせうか。
まあこの辺りは、ものを書く上できちっと押さえておかないといけない話だとは思っているのですが。続く、かも。或いは、また別の話になる、かも(笑) そのまた或いは、前の話に戻るかも(おぃ)