ミステリ小説において、
- 「伏線さえ引いてあればフェア」というのが好きではない
という事なわけですよ。
そういう事でした。
一つ、大きな納得。
私的なミステリの話に関してはいずれ時間とその気があればちゃんと長文書くかもしれせんが(と言う事を前にも書いた気しますが)、とりあえずちょっと、自分の覚え書き的意味も含めて、以下、メモ的箇条書き。
- つまるところ、ミステリ小説を読むにあたって私が引っかかっていた事の一つは、“蓄積されてきたミステリ史におけるフェア・アンフェアが重視されるあまりに、小説や物語として歪んでいる事がある”という部分であったのだな、と。
- ミステリ史観においてフェアならばそれでいいのか、と。
- この“フェア・アンフェア”という約束事は、果たして“物語の力”より重要であるのか。
- 実際の書き手(そして同時に熱心な読み手である傾向が見受けられるようですが……要するに、ミステリ小説の解説文は何故あんなに同業者が書く場合が多いのであろうか、と)の立場の人達が、むしろその縛りが存在する事に対して嬉々としている一面もある気もする。
- うーんでもまあ、結局のところそういう、ルールに則った上に書くからミステリ、というのはあるのかもしれない。
- とはいえ、90年代の主流(と思われる辺り)を浅く広く撫でただけなので、本質論に迫るのは早計。
- 古典はまた、話が別。ここで考察したいのは、歴史が構築された後の話。
……以下、もう少しあるのですが、この後はやや過激(そして的外れ)な内容が混じっているような気もするので、後はオフレコ(笑)
基本的にはクローズなメモよりオープンなメモの方が記憶に残るので、(メモを見れば思い出すかどうかより、脳の思考部分に常駐されるか否かの問題)一晩たって別にそれ程とも思わなければ改めて書くかもしれませんけど。まあ、大した事ではないんですが。