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ぷろせす

そもそもは私の感じていた“違和感”から説明しないといけないのですが、これが「何となく感じているのだけど何に感じているのかわからない」という代物だったもので、非常に説明がしにくい(笑)
結果としては、
前後の脈絡と関係なく、技の名前を叫ぶ(或いは書き文字が出る)と、技が発動している
事に対してだったのだと、今回、やっとわかったわけなのですが。
で、これは一体何なんだろう……と考えた時に、
ああ、格闘ゲームなのだな
というのが見えたわけです。
必要なのは「技の名前」と「ポーズ」であって、位置関係とか戦闘の状況とかはある程度無視した所で、要件が揃えば技は発動する。
で、私はなるほどその手法に違和感を覚えていたのだなぁ、と。
なおこれが更に発展すると、発動した瞬間には命中しているという状況も発生します。例えるなら、「波動拳!」と叫んだ時には既に的に波動拳が当たっているという状況。
要するにプロセス(過程)が存在しないのだなぁと。
今回、『D.Gray-man』読んでいる時に気付いたので引き合いに出しますが(色々と感じていたのでこのマンガに限った話ではない)、レベル2以降のAKUMAにしろ主人公側エクソシストにしろ、基本的に技の名前を叫んだり書き文字がコマに乗ると、技が発動して場合によっては既に敵に命中しているのですよねー。しかも、技の説明は基本的に無い。2巻あたりで神田がいきなり刀からなんか飛ばしてますが、“要するにそういう技なのである”と読者は納得するしかないのだろうか、と。途中で、アレンの「なんとかの十字架」だか何だかも叫んで発動した時には既に命中済み状態、になってますし。これはつまり、プロセスを極端に省略した格ゲー的演出手法なのであろうかな、と。
それなら車田正美が発端では? と言われるかもしれませんが、車田システムの場合は、
必殺技=大ゴマで叫ぶ (逆もまたしかり)
という約束事の確立であって、少々、趣を異にします。
格ゲーシステム(仮称)は、必殺でなく、大ゴマでなくても、成立するというのが特徴なので。
先に引き合いに出した『D.Gray-man』だと、3巻の時間を繰り返す街で襲ってきたレベル2AKUMA辺りがこの典型なんですけど。なんか技の名前を叫ぶと技が出る。対するリナリーもそういう感じ。別に普通じゃないか、と言われそうですが、そこまでのプロセスを意識しているかしていないか、てのはやはり読んでいて伝わってくるわけで(要するに私はそういう所に漠然とした違和感を感じていたらしい)。
良い悪いではなく、プロセスに意識が無いのですよね、読む限り。
つまり、高くジャンプをする為には本来屈伸をしないといけないのですが、屈伸をしなくても「ハイジャンプ!」と叫ぶと高くジャンプ出来る(或いは既に高い所にいる)世界観なのですよ。
演出上の問題なので、世界観、では無いですが本当は。
で、これはどこから来ているのだろう、と考えた時、ジャンプ系において車田システムと格ゲーシステムの橋渡しみたいな位置にあったのは『るろうに剣心』(和月伸宏)なのかな、という気はします。
このマンガも前半はけっこうプロセスにこだわって書いているのですが、京都篇に入った辺りから徐々にプロセス無視の方向に入りだして(一番決定的だったのは、空中で「九頭龍閃」)、一応色々と技の理屈をこねる場を残してはいるものの、演出的には「天翔龍閃」でとうとう、完全に車田システムになってしまいます(笑)
もう、間合いとか足場とか、ほとんど関係なくなってしまう。
とはいえそのまま完全に車田システムに依存するのは嫌だったのか、色々と試行錯誤みたいな物は見え隠れするのですが、結果的にはそれが橋渡し的なポジションに落ち着いた感もあり。
他には、いち早くという意味では萩原一至BASTARD!!』でパロディ要素も含めて格ゲーそのままをやってはいるのですが、この人の場合はそれすらも無駄な書き込みにより、一コマで絵を成立させてしまおう的な事をやっているので、若干、参考外。
あと、冨樫義博幽遊白書』も、仙水編のクライマックス辺りでは割と意味不明に雑な必殺技が飛び交うのですが、なんかもう、この辺りはマンガ自体をどう捉えたものかと(笑)
むしろ本来、冨樫はプロセスというものに関しては偏執狂的な所があり、漫画家としての立ち位置は、逆にプロセス超重視派なわけですが。
ちなみに同じプロセス重視派でも、もはやストーリーよりも設定よりもプロセスこそが最重要という、やや本末転倒な所に辿り着いてしまったのが、最近の荒木飛呂彦。あの人はもう、現象が始まってから結果に辿り着くまでに何度話を転がせるか、というのがマンガの根幹になってしまっています。
他の雑誌・系統だと、また色々な人が居るかとは思いますが。
で、こう考えるとなるほど私が『鋼の錬金術師』(荒川弘)を受け入れられたのは、格ゲーシステム(仮称)に依ってないからなのだなぁと今更ながらにわかってみたり。
いや正直、このマンガは実際に読むまでは、掲載誌的にも絵から感じる雰囲気的にも世間での受け方的にも、そういう如何にもな(悪い表現ですが)今時のマンガ、なのだろうと思っていたので(^^;*1
まあ、格ゲーシステムは演出的に便利な反面、技=縛り、となってしまうという欠点はあり、『鋼の錬金術師』の場合はマンガ全体で(錬金術、という設定含めて)、その辺りをやや漠然とさせているというのが効果的に働いている作品なのですが。というかこの御時世によく、そういうマンガをちゃんと作ったよね、ぐらい思うわけなんですが。そして実はこのマンガは、そのプロセスにかなりこだわっている、というのが徐々に見えてきているあたり、荒川弘は油断ならなすぎ。
まあ、『鋼の錬金術師』はおそらく、完結の暁に色々な人が最初から細かく語り直す事になりそうなマンガだよなぁ、と。

*1:絵としての話をすれば、例えば大佐とか、如何にもなんか技名を叫びながら炎出しそうじゃないですか(^^;