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日本ポップカルチャー史における「正義」

最近つらつらと考えているのだけど、なかなか巧くまとまってくれない話。
というわけでメモを兼ねた文章なので、途中であちこちに話が飛んだり箇条書きになったり自分に自分で疑問形になったり色々おかしいかと思うので、適当に流し読みして下さい。
まあ事の発端は、「戦う理由を考える」という事自体が既に90年代(80年代?)的なんだよなぁ……というか一種のシンドロームというかだよなぁ、という所から始まりまして。
何のために戦うのか? とか、正義とは何か? とか考えてしまう時点で既に90年代だよな、と。70年代以前はそんな事考えてないかもしれない、と。或いは、考える必要が無かったか。これは、「自明の理であった」という考えも出来るし「実は信じてないから」という考え方もあるし、ある意味では、信じてないからこそフィクション上の題目としての“正義”が自明の理として存在しえるというやや屈折した言い方も出来るのですが。
で、そうすると、“正義のヒーロー”という存在はどこから出てきたのか、というのを考えないといけないのですが、この辺り、如何せん、知識も資料も足りません(^^; なんか、白黒の時代にぽっと言っていそうな気はするのですけどね。鞍馬天狗とか。あれって、正義って断言してたかなぁ……戦後、アメリカさんの影響もあるでしょうし。この辺り、知識不足で非常に何とも言えません。
マンガとかに目を移してみても、手塚治虫を通ってないので、手塚イズムの中に“正義”というのがあったのかわからない。
私が通ってきているのは横山光輝なのですが、横山イズムの中には、“正義”はありません(笑) 或いは、あっても極端に薄い(笑)
“いいもわるいもリモコン次第”の『鉄人28号』とか、“おまえがその力で地球をどうしようがおまえの勝手だと言う先祖持ちの”『バビル2世』とか、“正義とか悪の概念がそもそも存在しないサラリーマン忍者”『伊賀の影丸』とか。
……あー、石森さんはどうなのかなぁ。石森さんも通ってないので、わかりません。
通ってないのばかりですよ。
えーそんなわけで、まあTVヒーロー部門における70年代以降のアーキタイプとしての『ウルトラマン』からやっぱり始める事になってしまうわけですが、間違ってはいないけど、このネタに対する私のアプローチの限界が結局ここなんだよなぁ……(^^; と、ひとり反省。
ウルトラマン』で既に67年ですからね。この後ろに実は決定的な物が潜んでいるという可能性も否定できない。否定はできませんが、やはりアーキタイプとしての最大影響が『ウルトラマン』であるというのも間違いないのですけど。
で、ウルトラマンがどうかというと、これはもう、定義付けからして正義のヒーロー。
有無を言わせず。
でもねー、じゃあその掲げているお題目としての正義って何か、という事に関しては基本的には言及していない(筈)。どうしてかというと、多分、造っている側が信じてないから。要するに、“正義のヒーロー”というもの自体が、フィクション上のシステム
ではそれを無定見に子供に押し付けているのかというと多分そういう事ではなくて、物を語る上でのシステムとして用いているけど、そこから色々なものを読み取る能力はあるよね、という事なのではないかと。
これはよく言われる事ですが、この年代の作品は無理に作中に解答を用意しようとしていない。
投げた所で終わるというか。
後は自分で考えて、という所があって、そこでその原点で前提に戻る事も有りである、と。
ところが後年、(これは『ウルトラマン』の功罪でありますが)このシステムが一人歩きというか拡大解釈されて、“正義”という不文律が信仰されるに到ってしまう。
この、正義というものが確かに存在してそこにヒーローが立脚している、というのが70年代以降の流れであって、多分、“正義のヒーロー”から“ヒーロー=正義”になってしまって、この辺りからズレが生じているのではないかな、と。
で、集団無意識下の絶対正義、というのがヒーロー物を支えるバックボーンになってしまうわけですが、ここに到ってそこに発生する矛盾に対して考察する必要性というか、考察そのものが物語のテーマになっていくというのが90年代的なお話であるのかな、と。
なお、『ウルトラマン』の直接的後継作である『ウルトラセブン』は“正義のヒーロー”の話では無いのですよ。むしろ、あの世界観には、正義、というものがない。個人の信念としては存在するけど。というか正義とは結局、個人の我執である、という話。で、その我執がどこから来ているのかというと一つは「サバイブ」であると。
70年代以前というのは、「なぜ戦うのか?」それは「戦わないとやられるから」という、いわば生存の為の闘争というのが最優先事項であり極端に言えばそこに理念は必要なかった。
ウルトラマン』なんかも完全にサバイブの為の闘争こそが本質であって正義というイデオロギー(はここではちょっと意味が違うような気もするのですが巧い日本語或いは横文字が思い浮かばなかったので、本稿では以後これで通します)は埒外だったのですけど、前述したように70年代の様々な後継作品を経てこれが拡大解釈されていった結果、イデオロギーに裏付けられた闘争であるという誤解がなされ、正義という概念が絶対視されるようになった。
要するに、ちょっと時期は明確にできませんが、70年代に入って80年代へ流れていく中でテーマ性が「サバイバル」から「イデオロギー」へと移り変わっていった。これ自体の是非はさておき、この文脈は基本的に70年代以降の文脈なのであろうな、と。
何せウルトラマンなんてミクロ化したバルタン星人20億3000万人の乗った円盤破壊という、ヒーロー物史上最大級の大虐殺を行ってますから。
で、90年代になると完全にこの「イデオロギー」こそが主体となって、敵が目の前に居てやらないとやられるみたいな状況にありながら、主人公は「どうして戦うのか」「敵を殺していいのか」なんて事をうじうじ何ヶ月も悩む事が許容されるようになる。
話はちょっと横道にそれますが、ある時期から私がアニメとかだいぶ見られなくなってしまった理由の一つがこれで、「サバイバル」<「イデオロギー」、という世界観が駄目なんですね。「サバイバル」>「イデオロギー」だと思っているので。
もうだいぶ前にそこを通り過ぎてしまったというか。
例えば、『機動戦士ガンダム』なんかは、いっけんイデオロギー闘争と誤解されがちですし、善玉悪玉の構図やリアリティ付加の為の政治的背景などは描いているのですけど、実は徹底して「サバイバル」の話なのですよね。「コロニーが襲われたから戦う」し「シャアが追いかけてくるから戦う」わけで、イデオロギーなんかはそっちのけ。
70年代、『ウルトラマン』フォーマットが無定見に広がっていく中での反動というのは無論色々な所にあるのですが、『ガンダム』などは実は多分、ある種の原型帰りという見方も出来るな、と。後年はまた変わってきますが、『海のトリトン』辺りからの流れでの富野監督の筋というのはその辺り、通っています。
そういえば昔『ガンダム』見ていて子供心に衝撃的だったのが、「塩が足りないんで寄り道する」みたいな話があって、今思うと、これは凄いガンダムの本質的な部分なのだなぁと。
それから90年代になると、特撮にしろロボットアニメにしろ「毎週1回は戦闘する、スペクタクルはあってなんぼ」という事項さえも、スペクタクル<イデオロギー、という感じで阻害されてしまう事があって、そこまでいくとエンターテイメントとしてどうなのですか、と私なんかは思うのですけど。やっぱり、見せ場はあるべきだし、同時に、突っ込まなくていい所、というのもあると思うんですよね。
イデオロギーを重視するあまり、造り手にそこの区別がつかなくなっているという傾向が、発生する。
まあたまに変わり種があるというのは有りだと思うのですけど。
そういうのではなくて、もっと本質的な部分で。
∀ガンダム』に到るまで、あくまでスペクタクルを置き続ける富野の気概を見よ。
……話が本論からだいぶずれてきましたので、そろそろ引き時か。
あーあと、今時は色々と突き詰めていった結果、「バトルゲーム」みたいな設定になってしまう話もありますね。
「なぜ戦うのか?」というのに対し、「ルールだから」「ゲームだから」「その為に造られたから」みたいな。実はこの手の設定が凄い嫌いだったりしますが。この手の話はだいたい、途中でその前提条件に対して疑問を投げかけるわけですが、そもそも最初から理由付けを放棄しておきながら、途中でそれに対して疑問を投じるというやり方が嫌い。これはもう、単なる好き嫌いの話ですけど。
んー、『ウルトラセブン』の話とか『シャンゼリオン』〜『クウガ』の話とかこの流れで続けられそうな気もするのですが、とりあえず今回はこの辺りで。といっても、次回があるのかは不明(^^;