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足かけ二ヶ月で千鳥足気味な文章

拙稿

日本ポップカルチャー史における「正義」
で書いた話を、id:rbyawaさんが

「≪正義≫とはなにか」とはなにか? とはなにか。
で拾って下さったので打ち返そうと思っていたんですが、バタバタしている内に一ヶ月ぐらい経ってしまいました(^^; とても今更ですいませんが、ややファール気味に打ち返してみます。
※と書いてから更に一ヶ月が経った。ごめんなさいごめんなさい。
基本的に私は、「システム論」にこそ興味があるのですよね、多分。“正義”というイデオロギーに関しては、物語の世界観だったりテーマ性に応じてそれこそ千変万化するものであって、それそのものに関してはあまり興味が無いというか。
“正義”そのものに関する考察が物語を離れた所で語られるのが好きでないというか、それは本質的に物語とリンクするべき物であって、一つの理屈のもとに絶対的な定義とされるべき物では無かろうと。そこで頭でっかちになってはいけないのではという危惧があって、要するに、“生きてる”って事を無視してはいけないよなぁと。
超光戦士シャンゼリオン』なんかは多分、60年代サバイバル世界観とは別の方向からこの“生きてる”という要素に対してアプローチしたという側面もあるだろう、なと。
……というのは今気が付きました(笑)
80年代以降は“生きてる”というのは当たり前になってしまって、当たり前故に誰も語らなくなってしまったのですけど、そこをもう一度見つめ直そうというのはあったかもしれないと。それがまあ、「正義とは何か?」ともリンクしてくるわけですが。この辺りのテーマにはこだわりあったのか、井上ー白倉ラインでは後の『仮面ライダーアギト』などはやっぱり、『シャンゼリオン』の延長線上だよなぁと改めて。『アギト』のテーマは、「畑を耕す」なので(笑)
うーん、で、こう考えてくると、設定した時点ではそんな事まで考えていたとは思いませんが、ダークザイドの目的が“食餌”であるというのは、割と『シャンゼリオン』という物語の本質をついているのかもしれない。
……話が凄いずれましたが、この話はこの話で長く引っ張れそうな気もして、その内何かの拍子に展開するかもしないかも。
でまあ、私が興味のある「システム論」というのはつまり、物語の中で「どうやってそれを使うのか?・取り込むのか?・用いるのか?」という部分であって、その用法と作劇にこそ恐らく、一番の興味があるのだと思います。
で、その一環としてrbyawaさん言う所の「≪正義≫とはなにか、とはなにか?」、更に、「せいぎとはなにか、とはなにか、とはなにか」というのもあって、いやこの言い回しは巧いなぁ。

シャンゼリオン』『クウガ』なんかは多分「正義とはなにかとはなにか」なんじゃないのかな、それでもって、その辺に引っ掛かって、そこから先に進んでないと私なんかは思ってます。
言い回しの違いになるかもしれませんが、『シャンゼリオン』や『クウガ』がやったのは
「正義とは何か」を作中で提示する所から始める
だと思うのですよ。
80年代以降、「正義」というテーゼは作品の既に前提であって改めて提示する必要が無かった所を、作中でもう一度、提示してみようと。例えるなら、80年代以降が基礎工事が既に終わって、実際に建物を造っている所から家主に見せているのに対して、基礎工事の段階、足場を造っている所から家主に見せようと。
“こういう土台なんですよ”という作劇に変えていっている。
これが結局、正義の動機付けとか、正義の背景とか、そういう部分になるわけなのですが、まあそこから描こうとしている事によって若干の自縄自爆に陥っている部分は無きにしもあらず。
で、後にこれが若干の変化を見せて、「正義」というテーゼはとりあえず置いておいて、「戦う理由」(思想的なものでなく現実問題としての)から始めよう、というのも出てきます。その上で、戦いの中で「正義」を付加していくという手法なのですが、まあ、これがちょっと失敗であったよなぁと私なんかは思うのですが、この手法は「戦う」という全ての前提条件を疑問視してしまうんですよ。
でも、戦わないとエンターテイメント出来ないわけで。
ここで、戦うという「理由の為の理由」を必要としてしまうという状況が発生する。
本来それは多分、考えてはいけない事の筈なんですけど。
この「理由の為の理由」というのは、「せいぎとはなにか、とはなにか、とはなにか」辺りに該当するかなぁとか思うのですが、外からやる分にはOKだけど内側で触れてはいけない辺り、の話、きっと。
何かまた大幅にずれた気がするので、話を強引にシステム論に戻します。
やや極端な例えをすると、特撮ヒーロー業界というのは、どうしても
1966年 定礎 ウルトラマン
というのがあって、
時々びっくりハウスが建ったり、重力に逆らう方向に塔が突き出したり、地下室を作ってみようという試みがあったりはするのですが、根っこの土台は変わっていない。
で恐らく、rbyawaさんの求める“そこから先”というのはきっと、20××年 定礎という、新しい定礎を造る事なのではないかと推測させていただきます。
実際私もそれを期待している所はあるのですが、制作側も試行錯誤は見られるのだけど、そこに行き着いてないし、そう簡単に行くわけもないし、というのはあって、やや迷走を孕んでいる所はあるのかなと。
付け加えてもう一つ。

しかし、どうして彼らに誰も“斬新”の言葉を送らないんだろう。
『青い夜に君を探す』・お子様向けにクドいんだと思います...orz
率直に言ってしまえば、自分の器の中でものを語りたい人達にとって、それは“禁句”だからです(笑)
ある枠組みを踏まえてくれないと、意義付けできないから。
まあ正直、私も若かりし頃はそういう傾向もあったので、感情的にわからなくはないのですけど。