以下、『仮面ライダー龍騎』TV版の最終的なネタばれを含みますので御注意下さい。
具体的な例示をもとに話をするには調べないといけない事が多くなるし記憶も完全ではないので大まかな話となりますが、あれは結局、
“ヒーロー物における「ヒーロー」とは何か?”という命題をもとに、ヒーローの存在理由を問うあまり、存在意義をなくしてしまった話。
なんですよ。
基本的に、主人公は自覚的ヒーロー未満であり、それ自体は別に構わないのですが、その主人公のせいで人が死にすぎる。
特に、物語終盤、オルタナティブな教授関連の人達は完全に主人公の自己欺瞞により死ぬ羽目になるのですが、実はそれって、主人公が本当にヒーローだったら許されるんですよ。フィクションの中では。どんな建前論を振りかざしても構わないのは一つの物語という力に定められたヒーローの特権であり、フィクションがそこで成立する限りにおいては許される(ゆえにフィクションは成立しなければならない。←ここが凄い重要。通った建前は通しきらないといけない。)
しかし、『龍騎』は自覚的にそれを否定する。
その上で殺してしまう。殺しすぎる。
故に最後に主人公は自業自得的に死亡する。
ここに切り込んだ事自体は偉いといえば偉いし、ちゃんと主人公も死ぬ事で話の論理的スジも通すのですが、ではそれが“やっていい事”だったかというと、私は“やってはいけない”事だったと思うわけです。
命題そのものは結構であろうが、命題を問うあまりにそもそも“ヒーロー物”という枠組みを壊してはいけないと思うのです。
いかなアンチテーゼであろうとも、テーゼそのものを壊してしまえば、もはやそれはアンチテーゼでは無くなってしまう。
解答は問いの中でこそ発生するべきであって、問いそのものを解体してしまえば、もはや答そのものに意味がなくなる(問う必要が無くなる)。
そのバランス感覚の舵取りを、失敗してしまった作品だったと思うのですよ。踏み越えてはならない方向へ踏み違えてしまった。
ヒーローとは何か?
を問うならば、
ヒーローは確かに存在していなければならない
そこでもしヒーローそのものが居ないなら、もはやそれはヒーロー物では無く、問いかけそのものが意味をなさない(厳密にはそうではないわけですが、違う土俵でする話はまた別で、ここでは同じ土俵の上でする話を取り上げていると思って下さい。というか、違う土俵からやるなら別に難しい話でもしゃちほこばる話でも無くなってしまうんですよね。同じ土俵でやろうとする所に一つ、重大な意味が生じるわけで。だから俵踏み越えて落ちてしまったらその場合は駄目なわけですよ)。
個人的に、これと似たような失敗をした作品として評価が低いのが『ガメラ3〜イリス覚醒〜』(こちらの方が早いですが)。
これも第1作目はけっこう好きなんですが、“怪獣映画とは何か?”という方向に進んだ際に、エンターテイメントとして触れてはいけない場所に踏み込んで、結局、怪獣映画として怪獣映画を問うはずの映画が、怪獣映画で無くなってしまうという本末転倒を迎える。
そしたらもう、どんなに深いところに切り込んでも意味が無い、と私なんかは思うわけです。