「プロ」の看板掲げている以上、素人にあーだこーだ言われるのは義務である
と個人的には思っているんですよ。
「義務」という言葉は語弊を招くかもしれませんので、「仕事の内」という言い方でも良いですが。
だからそこで、「何」に対して「どんな」評論をするのが「良い」か「悪い」という論議は無意味だと思うんですよね実は。
そしてこの場合、あくまでも言われるであって聞くではありません。聞くかどうか、聞いてどうするかは個人の裁量に任されるのは当然であって、ただ言う事そのものを否定する権利は認めるべきではないし、どうこう言われる覚悟が無いのなら、プロの看板取り外して、アマチュアとして生きていくべきだと思います。
これはいわゆる「有名税」とは全く別の問題で、プロの看板掲げている事で発生する価値・利益に対する当然の代償だと思います。
だから逆に、
それと望まない限り、素人は素人に批評されるべきでない
と思っています。自ら望んでいる場合は別ですが。
言い方を逆にすると、
望むと望まざるとに関わらず批評にさらされるのが「プロ」
であり
望まない限りは批評される事がないのが「アマチュア」。
ゆえに、求められてもいないのに素人の批評をするプロは非常に格好悪い。
同時に、「プロ」が「プロ」を批評する場合は、そこに相応の覚悟と責任がつきまとう。
なぜなら、その批評そのものが、批評の対象になるから。
(ちなみに、その道の「プロ」しか「プロ」を批評してはいけない世界は、凄い重苦しいか凄い安っぽい賛辞が飛び交うかのどちらかになる事請け合いです。なにしろ、投げたボールは全て直球で自分に反射してきますからね!)
で、これだと「プロ」の立場が悪くないかと思われるかもしれませんが、うん、そういうものだと思います。矛盾した言い方かもしれませんが、それゆえに「プロ」なのですから。
まあここで「プロ」の定義付け、てのが実は問題になったりもするのですが、まあ大雑把には
ある技能を持って特定の業種において利益を得ている人(最終的な赤黒は考慮されない)
とかそういう事になるのかなぁ。まあこれだと、例えば同人作家はどうなのさ? とかいう話になると困ったりもするのですが。恒常的に、とでも付け加えればいいのかもしれないし、まあ、“プロの同人作家”とかいう人もいるかもしれない。ある程度は、社会的認定と個人の精神的問題も取り込まざるを得ない観念かもしれませんが、少なくとも自覚的なものではありましょう。
なのでまあ、私に言わせると“批評される事を嫌がる”事自体が、プロとしてはどうかと思うのですよね。
むしろ批評されてこそのプロではないかと。
その内、何をどう捉えるかは個人の自由ですし、嫌な話も馬鹿な相手もいるかとは思いますが、言われる事そのものを否定するのは、アマチュアの立場であろうと。
プロフェッショナルのプライドが発揮されるべき場所は、そこではないでしょう。
ただまあ、誤解しないでいただきたいのは、素人はではプロに対して何を言ってもいいのかと言われれば、理屈の上では言っていいと思うのですが、でも「人間」としての線引きは必要であって、それは自分自身でしなくてはいけないよね、と。
結局の所、それを出来ない人が批評家を気取り出す所に(ただし、プロの側にも線引きできてない人が存在しないわけではない)一つの問題があって、いくら責任が生じないからとはいっても、
言っていい事と悪い事の区別はつける
というのは当たり前以上でも以下でもない事であって、プロもアマチュアも関係なく、その線引きが出来ない人は、軽蔑されてしかるべきではありましょう。
この辺りの話を集約する時に「愛のある/なし」という表現になってしまいがちなのかと思うのですが、もう少しシンプルに、「人間として最低限の節度がある/なし」という事で良いと思うのですよね。愛は無いけど体系的な話をしたくなる事ってありますし。
以上、『昨日の風はどんなのだっけ?』さんの所の話にかこつけて、以前からの持論を再度まとめてみました。
他人の土俵で別の相撲をとって、すいません。
見方が逆、てほどでもないですが少し違っていて、私の主体は「評論」にはなくて、される側の「プロフェッショナルとしての在り方」の方なんですよね。どうも私の思考法というか元来のテーマ性がそっち側にあるらしいので、どうもそうなるんですが。
まあ付け加えるならば、「される側」が「される事」をある程度受け入れて行く方が、ジャンル全体のあり方としてはやはり良いと思うのですよねー。小説の一部ジャンルでありがちなのですが、仲間同士で解説書き合っているほど、気持ち悪いものはない(もっとも素人さんに解説書かれても困るので、難しい所ではあるのですが)。