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久々に富野話と作劇論

語ろうZガンダム!

語ろうZガンダム!

『語ろうZガンダム!』なんて文庫本が出ていたので、つい読んでみる。
何故このタイミングでZ? と思ったら、新訳映画版の第2部が公開された頃(2005年10月)に出た(恐らくは)ムック本の、文庫版との事。この頃、PHP辺りの関連文庫本が割と売れているみたいなので、その辺りに乗っけた文庫化といった所でしょうか。内容は、富野由悠季はじめ、福井晴敏安田朗など、なかなか錚々たるメンバーのインタビュー集。ただこういうのは、リアルタイムでこそという部分はあって、3年半経ってみると、映画『Z』ってそんなに盛り上がってたっけ? みたいな感じは少々(笑) おそらく映画の第1部がいい数字出した事で、一番盛り上がっていた頃なのでしょうが。
内容としては勿論、公開当時という事で映画『Z』の話が主体なのですが、その他の作品などにも色々と触れてはいて、その中で福井晴敏の項にちょっと気になる部分があったので抜粋して紹介。

福井 ただ、そうなったときに怖いのは、一部のファンが「あれがいい! あれがいい!」って言っちゃって、それにくっついちゃうことをすること。と同時に「俺はまだこんなものじゃないんだ」と言って、そのファンの人たちに対するカウンターみたいなものを作りだすと、結局よそ様から見たときに、どうでもいいキャッチボールにしかなってない場合もある。
俺は『∀ガンダム』はそれだと思ってる。ガンダムファンへのアンチテーゼとかって、普通の人にはどうでもいいことじゃないですか。
(中略)
「『∀』がすばらしかった! よかった!」って言ってるのって、実は残らず富野さんがいちばん嫌いなガンダムマニアであったっていう。で、「ああ、そうか、そことのキャッチボールになっちゃってるんだな」って俺は思ったんですよ。
―― でも、僕なんかはまさに「『∀』はすばらしかった! よかった!」と思ってるクチですから、悪しきガンダムファンの典型なのかもしれないんですけど、うちの奥さんはアニメは宮崎アニメやディズニーくらいしか見ないし、「ガンダムは暗いから嫌い」なんて言ってる人なんですけど『∀』には非常に感動していて、何度となくボロボロ泣いていたんですよ。
福井 話の意味、わかったのかな?
福井さん、貴方が一番、嫌なマニアだよ(笑)
まあ、文章に起こしている時点で会話としてのニュアンスというのがわからなくなるので、100%ストレートに受け止めるべきでないとは思いますが、これ、私がインタビュアーだったらカチンと来るなぁ(笑)
福井氏も福井氏で、自分の『∀』評に対して実例を出しての反論(このインタビュアーは全体的に、質問の意図も含めかなり自分の意見を口にする)を受け、ちょっとムッとした所はあるのかもしれませんが、自分と違うアプローチを受け入れられない、というのは典型的なマニアの所業。
この、「わかった/わからない」を尺度とするのがマニアの悪疫であって、マニアにおける「わかった比べ」こそ不毛なのですが、たぶんもう、無意識のレベルなのだとしか思えません。
マニア同士でわかった比べするのは構わないと思いますが、別のアプローチをしている人達に対して、その価値観を押しつける(或いは無理矢理に同じ舞台に立たせようとする)のがそもそも間違いであるのだと、なぜ気付けないのか。
かく言う私も読解とか解析とか嫌いではないですし、講評としての文章は過去にけっこう書いてきましたが、そういったものは元来やりたい人がやりたいようにやれば良い事であって、決して誰しもの義務ではないわけです。
理解の深度を評価する、なんていうのは所詮はマスターベーションのトーナメントにしか過ぎないのですが、その部分が見えないのは、なにより福井氏自身が、呪縛されているからなのでしょう。
まあ明らかに、福井氏自身が、『∀』は自分(達)に向けて放たれたカウンターだ、と思っている節があって、それ故にこういう反応になる所もあるのでしょうけれど。
付け加えると、ガンダムほとんど知らないけど『∀』面白かったと言っている人、少なくとも身の回りで2人知っていますし、映画版のパンフレットには、最初の『ガンダム』以降全く見ていなかったという伊集院光がコメントを寄せているのですが*1、たぶん『∀ガンダム』には、なにかそういう、染まってしまった人(もちろん私自身を含む)にはわからないものがあって、確実にある人数を惹きつける力を持っている、そういう部分を、「わかった/わからない」の理屈で切り捨ててはいけないと思うのです。
理解らなくては泣いてはいけないのか?
結局、女性の感傷で評価されるのが嫌なのでしょうが(正直、部分的にはわからないでもない)、それは理屈みたいに言う事ではないと思うわけです。
自分が見えなくなっている部分があるという事を、認めなくてはいけない。
一方で、ちょっと面白い事も言っています。

∀ガンダム』ってね、導線がないんですよ。導線はロランに作らなくちゃいけなくて、ロランに導線を作るためには何をするかって言ったら、たとえば最初に地球に降りてきたときにコヨーテと出会うでしょ? 第一話の前半はそれだけで終わらせる。あのときのサスペンスだけで15分ぐらいかけて描かないと、何気なくテレビを見ている人はついてこれない。どんどん場面が流れていっちゃったら、チャンネルも替えられちゃう。
「導線」というのは福井氏の用語的なもので、大雑把にいうと「視聴者が物語に入り込む為の入口・道標」みたいな感じの意。
でこれは、物書きとしては非常にわかります。加えて、富野演出によるvsコヨーテのサスペンス15分*2は、単純に見てみたい。もっとも、そんなに延々とコヨーテと戦っていたら、やっぱりチャンネル替えられちゃうとは思いますが(笑)
それはさておき確かに『∀』は、どこから入ればいいのかわかりにくい、というのはあって、評価を難しくしている一因ではあると思います。
ロランに至っては、導線どころか、視聴者の感情移入すら求めていないキャラですし。
そもそもある時期以降の富野作品は、確たるシリーズ構成の無いままに誰も先がわからないまま進んでいくらしいのですが、そういう、よく言えば柔軟、悪く言えば適当、な所がロランくんには如実に出ていて、主人公としては非常にわかりにくいし、どう考えてもわざとそうしています。
あとロランて、たまたま最初に拾われた家に美人姉妹が居たから「お嬢様のために」とか言っていますが、例えばギンガナムみたいな人に拾われたら、一緒に大暴れしていたと思います(笑) 彼のベクトルの触れ方は、基本的に危ない。
敢えて言うなら、中盤以降のディアナ様、というのが一番わかりやすい軸なのかなとは思うのですが、中盤以降ですしね。
この辺りの、福井氏の言いたい事は非常によくわかる。
とはいうものの、今時のアニメ風に撮ったら多分ロランがハイム鉱山に馴染むまでに2話、とかになるのでしょうが(更に今時のアニメなら放映クールが短いので逆にもっと展開早いか?)、そういうのがまだるっこしくて、ある時期からアニメを見られなくなってしまった身としては、やはり富野演出のスピードは心地よいのですけれども。
開始5分足らずで主人公が裸で川流れして鉱山に拾われてなんかもう運転手になってるよ、というのが面倒くさくなくていい、と思うのはまあ、私が慣らされている所はあるのでしょうが(^^;
90年代後半からのTVアニメーションが顕著に気持ち悪いのは、“オタクの観点による子供同士のねちっこい対立軸”が延々と描かれる事で、“どいつもこいつもコミュニケーション不全”なだけなのを、人間ドラマと勘違いしている事だと思うのですが、「クール」というよりは「単なる嫌なヤツ」な二枚目とか、「無垢」というよりも「白痴」なヒロイン、とかは未だにTV画面に出てくるのでありましょうか。
近年になって(?)、素敵な仲間(友達)関係、みたいなものが強調された作品が増えているのは、こういう流れへのカウンター的な意味合いもあるのかもしれない。
また一方では、その素敵な仲間・楽しい日常、が、ある事件(だいたいグロめ)を境に一変して……というのが、ギャルゲー乃至ライトノベルにおける一つのスタンダードパターンとして成立するようになるわけですが(もともと無かったわけではないでしょうが、ここまで一般化したのは何の影響なのだろう?)、まあどんなジャンルでも一周回ると新しくなったりもするわけで。
ところで、いわゆる福井3部作の映画を富野は酷評しているらしいのですが、そんな富野を師と仰ぐ福井氏が富野作品の純然たる続編として書いた小説がアニメ化でその監督の代表作は『るろうに剣心』とか『HUNTER×HUNTER』らしい、という何だか四次元的なコラボとなっている『機動戦士ガンダムUC』は果たしてどんな事になるのやら、作品そのものには興味ないのですが、ある種『ガンダム』なるものの解釈論としては面白そうだよなーとか思ってはいる。
とまあ、悪いマニアがここにも一匹(笑)

*1:まあこれは仕事としても

*2:勿論、厳密にAパートだけでそんな分数は無いですが