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『巨人−阪神論』(江川卓・掛布雅之)と昭和の終わり

一時代に名を馳せた、巨人・江川卓阪神掛布雅之(&主にデータ的な補足を担当する進行役)による、一冊まるまるの対談本。
タイトルは『巨人−阪神論』とは銘打っているものの、主題は二人の対決話。そこから、周辺の話題に話を広げていく、といった感じです。後半には現在の野球界の話題なども触れますが、全体的には懐旧と美しい思い出に彩られた、昭和プロ野球へのノスタルジー溢れる1冊。
基本的に両者とも野球論が自分の美学によりがちなのですが、自分達がメインという事で、それを全く隠さないというのが珍しいといえば珍しく、その辺りが鼻につかなければ、当時の裏話的なものも豊富で、読み物としては、なかなか面白いものかと思います。
「あの頃は良かった」というより、「あの頃の俺達は格好良かった」な部分がどうしても多いので、二人の印象が良くないと、辛い所もあるかもしれませんが。
昭和プロ野球の一証言、としてはなかなか読める内容になっております。
さて個人的には、原について触れているかどうかが気になって読んだのですが、後半、〔原監督の手腕〕という表題で、直接触れている所がありました。以下その部分より、ちょっと多いですがある主旨にのっとって引用。
−−−−−

江川 自分のカラーというか、野球の方向性というか、そういうものを出そうと思い始めている感じがします。「原野球はこうなんだ」というものが、確立したとは、まだ言いませんけども、その方向性は出てきていますよね。

江川 原さんがどういう野球をするのかと聞かれた時に、優勝はしたけれど、まだ完全に確立されていない。しかし、今、それを本人が作ろうとしているのが随所に感じられます。

江川 原の野球は、こうなんだというものは、もうすぐハッキリとした形で現れてくるんじゃないかと思うんです。この1、2年で出ますよ。今は、その途中だと思いますね。

江川 原辰徳のやりたい野球は、こういう野球で、こういう人が1、2番に当てはまるんだというものが確立されるのは、もうちょっと先のように思うんです。

掛布 ただ僕が、これから原監督にお願いしたいのは、生え抜きのクリーンアップです。数年前の巨人の中で、二岡智宏高橋由伸という3番、4番を見たかったんです。
(中略)
生え抜きの3番、4番を巨人が組めた時に初めて原野球の完成形が見えてくるんじゃないかな。

掛布 まだ小笠原とラミレスが元気だからね。あと2、3年の間で巨人は、また変わると思うんだよね。
江川 そうだね。その時に初めて原監督の色が出るんでしょうね。

江川 今のクリーンアップの3番、4番は他のチームで活躍している人が巨人に来てくれたわけですからね。
掛布 そうそう。そこが入れ替わった時にね。本当に原監督の形というか、色が見えてくるんじゃないかな。
−−−−−
いやははははははは、凄い、凄いなぁ、原。もうこれは、原の凄さなのだと、むしろそう受け止めるべきな気がしてきました。
〔原監督の手腕〕という表題の約6ページの中で、これだけ、「“原野球”はまだ確立されていない、色がない」という言い回しが登場します。
いや、去年までの6シーズンで、リーグ優勝4回・日本一2回という実績を挙げている監督なのですが、
「え、じゃあ、色、要らないんじゃない?」
という事な気がするわけで(笑)
野球観が昭和で止まっている掛布はともかく、最前線で動いている筈の江川でさえも、原野球を表現する言葉を見つけられないでいる(或いは敢えて見つけない)。
原ファンからすれば、今の用兵こそ原の「色」であり「形」に他ならないのですが、何故かそこから目を逸らす。
ここで、以前に拙文になくまさんから頂いたコメントを思い出したのですが、

原の目指す野球って結果を出している「形」がそこにあるのに、実は明確なコンセプトをすごく見出しづらいんじゃないかと。「生え抜き」も「外様」も、「若手」も「ベテラン」も、「主役」も「控え」も、それぞれの価値を冷静に理解してパラメータを平等に振り分けている感じ。そりゃストーリー書きづらい。ライター泣かせですなぁ。
成る程、原野球というのはつまり、語りにくい野球、なのであるなぁと。
従来の野球のドラマツルギーで語りたいのに、語れない。
語れないのに、勝ってしまう。
そこで皆、判で押したように「3番、4番は別のチームから来た人」と言って、時間を稼ぐしかない。
しかしそういったネガティブな意見も含めた上で、“今の原野球”というのを、評論家も解説者もライターも、正面から評さなければいけないと思うのです。そしていい加減、昭和プロ野球的世界観を葬り去らなければいけないと思う。
「昭和プロ野球的世界観とは何か?」と正面から聞かれると答えるのは難しいのですが、今の「原野球を評せない」というのがつまりは昭和プロ野球の残滓であり、私の言う所の“生え抜き至上主義”は一つの発露であり、近鉄球団の消滅問題の時に吹き出した淀みであり、或いは、ある年代以上に根強く信奉されている日本の美しいプロ野球、なのです。
個人的に現在の原野球の立ち位置というのは、平成も20年かけて、やっと昭和プロ野球的世界観を葬り去ろうとしつつある、という一つの事例ではないかと思いつつあります。
他にもFA制があったり交流戦があったりCSがあったり大リーグへのポスティングがあったり日ハムが北海道で大きくファンを獲得したり、そういう諸々をひっくるめて、これからも日本のプロ野球が生き残っていく為には、今ここにある野球、の面白さを伝えなくてはならないと思う。
懐旧の中に理想がある、というならば、結局は鎖国をするしかない。
誤解のないように付け加えておくと、回顧する分には、昭和プロ野球は昭和プロ野球で嫌いではないです。
ただ、そのルールに則っていないと、
「ドラマがない」とか「ストーリーが作れない」とかいうものからは、もう卒業しなくてはならないと思うのです。
結局それは、自分たちの評価しやすい「型」を求めているだけにすぎない。


もっとも、「結果」から評さないで「型」から評す、というのは野球に限った話というわけではなく、日本のスポーツ評に(もしかしたらそれ以外にも)蔓延する正しい「型」があるべきだ論とでもいうべきものかもしれません。そして正しい「型」があれば「結果」はついてくるものというのは、もちろん一理はあるのですが、ある種の「信仰」であるのだと思う。


なお、
「原野球とは何か?」
という質問に私なりに答えるならば、
例えば鶴岡が如何に素晴らしい仕事をしているかを力説したくなる野球
であると思います。
長く野球を見ているけれど、第二キャッチャーについて語ってみたくなる野球は、今までなかった。
私が何故ここまで「昭和を終わらせるべき」と強弁しているかというと、つまりは、そんな野球の方が素敵かもしれない、と今思っているからなのです。
後まあ余談ですが、ここまでこれだけの結果を出しながら、「まだ完成形ではない」と言われるのは、実は最高の誉め言葉である、という受け止め方は出来るかもしれません。完成したら、そこで終わりですからね。それ以上どこにもいけない。そして多分それをわかっているのが、原の底知れない所だと思う。