はてなダイアリーのサービス終了にともなう、旧「ものかきの繰り言」の記事保管用ブログ。また、旧ダイアリー記事にアクセスされた場合、こちらにリダイレクトされています。旧ダイアリーからインポートしたそのままの状態の為、過去記事は読みやすいように徐々に手直し予定。
 現在活動中のブログはこちら→ 〔ものかきの繰り言2023〕
 特撮作品の感想は、順次こちらにHTML形式でまとめています→ 〔特撮感想まとめ部屋〕 (※移転しました)

『寄生獣』感想・追補1

というわけで、先日の『寄生獣』感想の後半の流れで、“食事”というのは、テーマとして面白いなぁと思ったのですが、研究者でもコレクターでもないので、こういう時に手元に素材があるわけでもない、というのは如何ともしがたい。
そんなわけで、適当にアプローチしますが、人と人でないものを区別しようとした時、最もシンプルな区別はおそらく、“形状”であります。
人の定義付けに関しては、話がややこしくなりすぎないよう、とりあえずここでは、人(人間)=現行の一般的な地球人類、とします。
まあ例えば、体が粘液状、とか、触角がある、とか、円筒形、だとか、人とそうでないものをわかりやすく区別しようと思ったら、形を変えるのが手っ取り早い。
逆にこれは、人の脳とか魂とか意識とかを、人ならざるものに埋め込んだ時、果たしてどこまでが人なのか? みたいなテーマにも持って行けて、SFでは割とあるテーマなわけですが、実際『寄生獣』はそちら方面に行きかけて、要素としては含んだものの、最終的には行かなかったのかな、という気もします。
どこまでが人か? どこからが人か?
というテーマは、人間の定義、という問題含めてまた面白いのですが、話がズレすぎるので割愛。
さてでは、そこに居るのが、“人間に似たもの”或いは、“人間そのもの”であった場合、人が単純に異質を感じる要素は何かというと、「食性」と「交配(性的嗜好)」の問題であると考えます。
「宗教」という回答もあるかもしれませんが、この場合、宗教は二次的なものと置かせてください。とりあえず、宗教は生命活動とは直結しないので。
この「食性」と「交配」という要素が自己と違うと認識した時に、人はそこに異質なるものとの隔絶をみる。
例えば日常レベルでも、味覚の違い、というのは、共有ができないがゆえに、差異としてのウェイトが大きい。
だから食べ物の問題は、口論にはなっても、議論にはなりにくい。
ついでに書くと、オタクというカテゴリがひとくくりに「キモい」(すなわち理解の拒否)と言われがちなのは、要するにそこ性的嗜好の隔絶がある、と思われている、というのが実は大きい、という話は割と大真面目に主張したい。
そんなわけで、裏を返すと、異質なもの、を書こうとする時に一番手っ取り早いのは、この2点において、変化をつける事、であったりします。
まあ相手が「食人」という習慣だと、異質云々以前に「敵」と「味方」になってしまうのですが、そういう観点で『寄生獣』が面白いのは、非常に初期に、この2点についてクリアしてしまっている事。
まあ、ミギーの都合というのもあるのでしょうが、ミギーは人間の肉体が食物から得るエネルギーで生命を維持できるから、あえて人を食べる必要はない。そして、寄生生物が乗っ取った人間同士でも、性交は可能。妊娠も可能。ただし、それは寄生生物としての生殖活動には繋がらない。
まあ、繁殖にならないという点で、後者については厳密には解決していませんが、「食性」の問題は、一応、解決している。で今気が付いたのですが、極端な話をすると、新一が人間を食べても、ミギーのエネルギーにはなるという解釈でいいのかなぁ。これは残酷なタームですが、死んでしまえば


「死んだイヌはイヌじゃない。イヌの形をした肉だ。」
という事なのでしょうが。
ここまで書いてきて、そういえばくしくも『幽遊白書』の幽助の魔界父が、惚れた人間の女の為に人食いを止める、というエピソードを思い出しました。これはまあ恐らく、古典的なテーゼではあると思いますが。
その冨樫義博といえば、次作『レベルE』(傑作!)では更に踏み込んでいて、メスの排卵信号を探知してオスがそれを捕食する事で受精するという性質の宇宙人が、結果的に、恋愛感情と食欲と生殖手段との矛盾の中で破滅する、という救いようのない話を書いていました(あまりに救いようがない為か、楽屋オチみたいのが付け加えられましたが)。
あと、一世代に一度だけ交配した相手種族を、何らかのウィルス作用により、数世代以内に種族まるごと滅亡させる宇宙種族、というエピソード、とか。
これなんかはもう、「交配」がある種の「食事」となっているパターンな気はします。
思うに、食習慣を変える、というのは、相手に歩み寄る、という事に繋がっていると思うのですが、そうすると、「田村玲子」が人間を研究していく中で食性の変化を試みている、というのはそういうメタファーの面もあるのかもしれません。
そこに一つの理解(共通項)が生まれる。
その一方で『寄生獣』という物語全体は、互いの理解とは「点」にすぎない、という認識の問題に最後触れるのですが、「理解したつもり」を否定した時に、ではそこで何が残るかといえば、ある種の信頼なのではないかと。
「わかりあう」事が出来なくても、「信じあう」事が出来れば、良いのではないか?
そういう意味では、8巻における「田村玲子」との邂逅において、新一は「田村玲子」を信じたのであろうな、と。ミギーには理解できない、感情、行動、言動、の「田村玲子」を信頼した時に、新一に涙が戻ってきた。
それもまた人の特性――心のヒマ、のなせる技なのか?
とかなんとか、段々何を書いているのかわからなくなってきたので、今回は特にオチずにここまで。