新刊で店出ししていてタイトルが気になったので、興味本位で読んでみました。
(以下、引用部分は全て本書より)
- 作者: 多根 清史
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2010/11/17
- メディア: 新書
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と書いてあって軽く引いたのですが、帯などは出版社の営業の領分なんで、売る為にキャッチーなフレーズを掲げたのは筆者の責任でない場合もあるしなぁと思ったのですが、中もまあ相応でした、残念。
小沢一郎はシャア・アズナブル?
序文より、
この一節を呼んで、「へー」と感心した方は読めばいいし、「は?」と思った方は無理に読まなくてよいかと思います。
アメリカの大量生産・大量消費文明に憧れたこの国が造船業や自動車産業でトップクラスの輸出国となり、いっさいの軍備を禁じられた敗戦国が「軍隊」と呼んで遜色ない自衛隊を保有し、アメリカの“核のカサ”の下で庇護されてきた政府が「自主外交」を手探りするようになった道のり。それはロボットアニメの歴史において初めて量産された敵ロボット・ザク(それ以前は一機ごとに違う個性を持つ「怪獣」と同じ扱いだった)に惨敗を喫した主人公側の「連邦軍」が、ザクからノウハウを学び取ってガンダムという無敵のロボットを開発し、圧倒的に不利な戦況を逆転していったアニメの中のドラマと奇妙な一致を見せている。
私は、乗りかかった船、という事で頑張ってみましたが。
基本、全編通してひたすら、「○○」(『ガンダム』作中の事象や人物)と「○○」(現実の物事)をなぞらえる→歴史知識を開陳→時々、「しかし、○○と○○は重なりきらない」(それはそうだ)みたいな反問?(にあまりなっていない)を挟む→○○は○○なのかもしれない、という論法が続きます。延々と。
致命的なのは、それを前振りにして、「そこで私はこう思う」とか、なぞらえから離れた論理的飛躍とか、そういったものが、ほぼ全くない事。
なぞらえの為のなぞらえ、が延々と続きます。
端から端までなぞらえて、悦に入れるというのは、才能だなぁ、とは思うけど。
本文は、4章構成。
第1章「ジオン公国と大東亜共栄圏」では、第二次世界大戦へ向かっていく日本の、歴史的・思想的背景をジオン公国と照らし合わせていきます。
引用部分の合間には、歴史のお話とそれにまつわるなぞらえが入ると思ってください。
ジオンの掲げた「スペースノイドの解放」という大儀は、むしろ「大東亜共栄圏」的な思想に近くないだろうか、という所へ話は進み、
・「一般的に、ジオン軍のモデルは第二次大戦の頃のナチス・ドイツ軍だといわれている」
・「ドイツとジオンが似ているのは見かけばかりではなく、内面的な思想にもおよんでいる」
・「政局の乱れに翻弄されたジオンの足取りは、第一次世界大戦に敗れた後に迷走した末に、暴力による解決にすがりついたドイツをなぞるかのようだ」
・「しかし、ナチスとジオンの存在を重ね合わせようとすると、決して見過ごしにはできないズレが露わになってくる」
まあとにかく、全編、こんな感じ。
・「利己的と利他的の区別、スペースノイドという「自我」をとめどなく広げるうちに暴走し、引き返せないところまで行ってしまったジオン。そんな「善意のなれの果て」の中に、満足に現地の実情も調査せず、データも集めていない「アジア」を己に重ね合わせて自滅への道を歩んだ日本の姿を見いだすのは、さほど無理のあることでもないだろう」
・「近衛は「昭和のギレン」であり、ギレンは「宇宙世紀の近衛文麿」と言っていい」
・「今でもジーク・ジオン!と叫ぶイベントが開かれるたび、全国から大会場を埋め尽くすファンが集まり、絶大なジオン愛をうたいあげている。それは単なる弱い側に肩入れしたくなる判官びいきではなく、戦前の「日本の記憶」がどこかに残っているためかもしれない」
どこがどうかもしれないなのか、とか、現代の人物を歴史上の人物に当てはめるのもかなり馬鹿馬鹿しいのにアニメと来たら尚更……とか、色々ありますが、この後は、地球連邦軍側に話を移して、「地球連邦はイギリスなのか?」「しかし、重なりきらない」(それはそうだ)とか、官僚機構が云々、というテーマが続きます。
色々と知識を持ちだして当てはめた努力は買いますが、あくまで洒落の範疇ならともかく、なぞらえを真面目に論ずるならその先の何か(それが何かは作者の持っていきたい話の方向による)が必要で、現実にもアニメにもどちらにも立脚していない机上のなぞらえが延々と続き、例えば“ここまで現実になぞらえる事が可能な『機動戦士ガンダム』で描かれた政治的リアリティは素晴らしい”、というのなら「ガンダム論」として成立するし、逆にもう一度現実の方にターンすれば、「日本論」になるかもしれませんが、そのどちらでもない所を延々と彷徨っている為に、だから何?、と言う他ない。
まあそもそも筆者の用いているこの論法だと、時系列が重要な意味を占めるので、『ガンダム』からフィードバックして語れるのは、80年代以降の日本になる為、「日本論」としては極めて成立しにくいのですが。
続いて第2章「「ザク=零戦」「ガンダム=戦艦大和」か?」では主に戦時中のミリタリーな面から、第3章「スペースコロニーと宇宙への夢」では米ソの宇宙開発競争を下敷きに、『ガンダム』で描かれる未来世界の背景、について、分析。なぞらえながら、分析。
やればやるほど、
『ガンダム』ってこんなに現実にリンクしているんだ!(筆者の持って行きたい方向?)
というよりも、
富野以下のスタッフが如何に背景の肉付けの為の勉強をしていたか
という事だけが、浮き彫りになっていきます(笑)
ミリタリー方面は完全にカントクの趣味ですし、以後の作品の創作メモなどを見てもアニメに政治という視点を入れるにあたって富野はかなり勉強しているので、現実との接点が出てくるのも、当たり前。というか、富野以後の富野コピーをしようとした人達の多くが躓いたのは、政治の勉強をしないで政治を書こうとした事なのですが、そういう所へ踏み込んで話を持っていくなら、まだ価値が出てきたのですけど、この本。
そして、第4章「二人のシャア――富野由悠季と小沢一郎」。
話はとうとう現代日本の政治体制に至り、冒頭、55年体制の崩壊に触れた後、
思 い 出 さ な い よ。
歴史の変わり目にあって“壊し屋”と呼ばれる小沢のふるまいを見て、ガンダムを知る人なら誰しも、シャア・アズナブルを思い出すことだろう。
えーと…………どうして、こうなったのでしょう。
さすがにまるっきり、意味がわかりません。
第3章までは、気持ち悪い、というのが主な感想だったけど、第4章にいたって、怖くなってきました。
以下、第4章前半の小見出し。
この筆者の本を読むのは初めてなので、これは筆者恒例のネタであり、むしろマジレスするな、みたいな感じだっらた御免なさい。むしろそうであってほしい。
シャアと小沢、二人の「壊し屋」/恵まれたプリンス達/55年体制がいけないのだよ/「ララァも喜ぶ」から政治改革/黒い三牛歩(?)に“壊し屋”が動く/小沢とシャアの敗北/「人類は宇宙で自立すべき」というマニフェスト/小沢とシャアの危険な純粋さ/小選挙区制とニュータイプ/僕が一番小選挙区をうまく使えるんだ……/逆襲のオザワ
後半は、「もう一人のシャア」扱いの、富野監督の半生に触れます。確か、シャアは富野監督の代弁者的部分がある、という点に関しては本人も否定していなかったような記憶もありますが(池田秀一が言っていただけかもしれない)、“もう一人”扱いするなら、順番が逆じゃないか、という気はします。そして“もう一人”という表現を使ったものの、富野と小沢一郎を絡めるような展開は全くなく、監督の話に終始しておきながら、唐突に最後でいきなり、お得意の論法で二人をなぞらえます。
(本の締めの方なので、引用はしません)
徹底している、という意味では凄い。
読み物としては、『ガンダム論』やりたいのか『日本論』やりたいのかよくわからないまま、結局どちらにもなっておらず、知的興奮の全くない、残念な1冊でした。