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少し違うなーと思う事

なんというか、言い方悪くなるかもしれませんが、必ずしも「被災地を勇気づけないといけない」って事は、無いと思うのです。
何かをする・しないの基準が、「被災地を勇気づけられるか否か」というのは、違うと思うのです。
その外縁の人達を、元気づけるのも重要な役割なのではないかと。
なんか全てが一足飛びにそこへ向かって、それを理由にしてしまうのは、どこか間違っているような気がします。


08年までプロ野球選手会長を務めた宮本は「納得できる理由がなかった。(東日本大震災で)今野球で勇気づけられるというのは、思い上がり。こういう時こそ、12球団で一致団結するのが大事」と話した。
〔燕・宮本「開幕遅らせチャリティー試合を」 /sanspo.com〕

勇気を与えるとかは、もう少し落ち着いてから。食べ物がのどを通って、電気も通って、ある程度の生活が確保されれば、さあ、がんばろうという気持ちになると思う。僕たちもそういう姿を見せないといけないと思う。でも、今は野球を見て楽しもうとか、そういうレベルじゃない。
〔金本「勇気与えるとかいう状況じゃない」/日刊スポーツ〕
理屈としてはありだと思いますが、こういった選手達のコメント、割と支持されているようですが、少し違うと思うのです。
そもそも勇気づけられるかどうか決めるのは選手達自身ではなく、いわんやプロスポーツ選手という“表現者”が、自分の身の丈を自分で決めてはいけないと思うのです。あらゆる分野において“表現者”というものは、届ける為の努力をし続ける存在であり、己で届く範囲を決めてはいけない。自分の限界を自分で決めたら、それは、“表現者”としての死であります。
同時に、すべからく被災地を勇気づけられなくては駄目なのか? という、問いもあります。
そこまで求められていると勝手に思いこんだり、そこまででなくても野球で救える物も人もあるかもしれないのに、それを最初から切り捨てているならば、それこそ「思い上がり」ではないでしょうか(少なくとも金本が打って守って走って、お立ち台で「みんな頑張ろう!」とか言ったら、阪神ファンのおっちゃん達のビールも進むし日本経済の為に頑張ってくれるんじゃないですか?)。
選手会が提唱すべきは「今の状況で野球をやりたくない」ではなく、「今の状況で出来る野球をしよう」だったのだと思う。
選手会の反応を見ていると誰よりも選手達が、野球をやる事で「こんな時に野球なんて」と言われて傷つくのを恐れているように見えて仕方がありません。
開幕の是非とは別に、それがとにかく、残念。
意地の悪い言い方しますが、「野球どころじゃない」と言っている選手達の多くが、ユニフォーム姿で練習の前後にインタビューに答えている、というのは、正直、私には意味がわからない。
そんな事をつらつら考えていたら、セルジオ越後さんが、こんなコラムをUPしていました。

この国難の最中、サッカーをすることで被災地の方々が本当に元気をもらえるのか、勇気を持てるのか、それは一概には言えない。しかし、被災を免れた元気な僕らが、いつまでも過激なニュース映像を見て悲しんでいるわけにはいかない。そろそろ国民全体の心のケアをしなければいけないときが来ている。サッカーには、傷ついた心をときほぐす力があると信じている。


1人負傷者が出たからといって、勝負を諦めるのか? 10人でも勝利を目指して戦い続ける、倒れた人の分まで走るのが、サッカーだ。

〔【セルジオ越後コラム】すべての日本人へ「倒れた人の分まで走るのが、サッカーだ」/FOOTBALL WEEKLY〕
これを、現場の野球選手がなぜ言えないのか。