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『輪るピングドラム』総括――きっと何者にもなれないけれど、君を救えた僕たちの物語――

基本的に面白かったのですが、何となくもやっとしたものがあって、それが何かを考えていたら、今作を途中から“罪と罰と救済の物語”として見ていたので、最終的に「運命を乗り換えた事」への不満が少なからずあります。
個人的には、
「運命を乗り換える」
のではなくて、
「運命を乗り越える」
話を見たかったかな、と。
そうするとまあ、劇中の諸々とは一切関係なくそもそも余命いくばくも無かった陽毬ちゃんに関しては、覆せない死すべき運命である、という事になってしまうのですが、作品の中心を担うタームに「結局どうしようもなかった」というのは酷いので、フィクションとして一つぐらいは奇跡があってもいいのかな、とは。
とすると、その為には、奇跡の対価――奇跡を起こすに足るだけの世界に対する貢献を兄弟が行う、という必要性が出るのですが、サネトシ先生による世界破壊の阻止をする事で、一つぐらい奇跡を起こす(マリオさんも含めれば、二つ、か)、という方向性はあったのかな、なんて事を夢想します。
これは、代償の先払い方式。
世界を救うという「因」で、陽毬の再生という「果(実)」を得る。
「運命の乗り換え」というのは、恐らくこれと同じ物語的なメカニズムで、代償の後払い方式でないのかと思います。
対価を払った結果として奇跡が起きるのではなく、奇跡を起こす事によって対価を払うシステム。
故に、世界に対する貢献なしに値段を決められない奇跡を起こすのなら、その身をもってあがなうしかない。
なぜここまで、「対価−結果」という関係性にこだわるのかというと、「因果応報」というのは実は、フィクションの世界でこそより堅固なルールである(べき)からです。
因果をともなわない奇跡は、単なるご都合として物語性を崩壊させる(そういう作品は沢山ありますが)。
ゆえに、良質な物語において、奇跡は代価を必要とします。
逆にいえば、物語の中で奇跡を起こすなら、その対価を物語の中で用意しなくてはならない。
だから今作が、“陽毬のため”の物語であるならば、物語構造としては、高倉兄弟が奇跡の対価を探す物語であった、という言い方も出来るかもしれません。
「陽毬ちゃんの延命」という「一時的な運命の乗り換え」を「確定」させる為に「対価」としての「ピングドラム」をペンギン様に支払わねばならなかった。
とすると、ペンギン様(モモカ姉さん?)の真意がどこにあったのかは今ひとつわからないのですが、本編中の謎解きと照らし合わせて考えるなら、サネトシ先生を完全に始末する為に「ピングドラム」が必要だった、という事か。それは結果的には世界の崩壊の阻止へと繋がるので、後付けですが奇跡に相応の対価を支払った事になる。
そこで、「陽毬の生きながらえる世界」が「確定」する。
一方でサネトシ先生が、陽毬やナツメさんの蘇生・延命を行えた事や劇中の扱いから見てもモモカと同等の能力を持っているとするならば、彼にとっての「ピングドラム」も存在したのか?
それが「世界を破壊する事」なのか「世界を破壊する事で生まれる何か」なのか、或いはモモカに世界が破壊される所を見せたいだけで、「一時的な運命の乗り換え」を「確定」させる気はなく、冠葉に対する詭弁だったのかもしれませんが。
そういえば特に描写が無かったけど、ペンギン様に一時消滅の危機があったように、サネトシ先生にも「一時的な運命の乗り換え」のリスクが恐らくあったと思うのですが、後半に冠葉を利用してどんどん事を進めなくてはならなかったのが、その辺りなのか。
で、「日記があるとゲームに勝てない」というのは、日記と呪文の所持者が、自分自身を代価に「運命を乗り換える」第三のファクターになりえる、という事でしょうか。
それをされると、自分の用意した契約が無意味なものになってしまう。
…………自分で出したお題に基づいてここまで書いてきてあれですが、こういう風に読んでくると、サネトシ先生の暗躍をある程度許した時点で、「運命を乗り越える」展開と、「陽毬ちゃんが生きながらえる」展開は、非常に共存しにくいかもしれない。
起こさなくてはいけない「奇跡の量」と「物語上での対価」の釣り合いが取れないので。
リンゴちゃんが「運命を乗り換え」にあの電車に乗り込んで来た時、「これが僕たちの運命」と呟いた晶馬くんは、あの辺りで、因果関係についてそこまで気付いたのかもしれません。
だからまあこれは、出来ればその二つを共存させるミラクルなウルトラCが見たかった、という、私の我が儘であります。
逆に、物語自体を、サネトシ先生の暗躍によってもっと追い詰められていたものと理解するならば、アクロバティックに綺麗に着地させた、という視点もあるでしょうが、私が当初感じた何となくの据わりの悪さというのは、恐らくその辺りの捉え方のズレに起因しているのかもしれません。
この作品を見てどこに引っかかるか(最重要のテーマを見るか)、というのはかなり人それぞれかとは思うのですが、私の中では「罪と罰と救済」というテーマをどこに着地させるかが(書き手としての私内部のテーマ性に触れるという事もあって)最終的に最も重要な所だったので、兄弟が自分たちごと罪と罰を消滅させてしまうという所への不満、というか素直な飲み込みがたさ、というのはどうしてもあります。
果たして、乗り換え後の世界に、どこまでの因果が残ったのかはわかりませんが(タブキ先生とユリさん辺りは、乗り換えていない?)。
そこを真正面から描くなら、乗り換えなかった世界で晶馬とリンゴちゃんがくっつくべきではあったのでしょうが、劇中でリンゴちゃん自身が思い、視聴者にもそう見えてしまったように、陽毬ちゃんを喪失した空虚をリンゴちゃんが埋められる可能性が非常に低そう、というのが辛い所。
ただ、そこで提示されるのは、時間、という救済でしか無かったとしても、肝心な所で地に足のついた『ピングドラム』として終わっても良かったかな、なんて事も思います。
この辺りは、後半の展開の中では18話とか20話とか、比較的オカルティックな要素の少ないエピソードが好きだったので、個人の趣味。
そういえば、やさぐれモードに入って一度は彼女を拒絶した晶馬くんが、リンゴちゃんに“赦される”事を受け入れたのはどこの時点だったんだろうなぁ。わざと明確に書いていないのかもしれませんが。
難点はこれだと、冠葉の救済が用意されない、という事なのですが、ナツメと冠葉で救済されるというルートもあったかとは思うものの、それだとだいぶ作品の構造を変えなくてはならない。
こう考えてくると、結果的に自分たちを代価とする事によって、愛する人達の「運命を乗り換えさせる」事で救済に成功した高倉兄弟二人は、100%満足したという事で良いのかもしれません。
きっと何者にもなれないけれど、誰かを救えたという事に。
そして、その満足自体が、兄弟の救済とするならば、テーマとしても、しっかり閉じているのでしょう。
生まれてきた事そのものを原罪とする彼等は、そこで解放される(見方によっては、既に乗り換え前の世界で、兄弟は救済を手に入れたともいえる)。
冠葉は陽毬そのものを“光”としていたけど、多分ラストで“陽毬を救う事”を光(=自分の救済)だと理解したのかな、と。それは似ているようで違う。ナツメ姉弟も運命を乗り換えて救われているので、陽毬のみならず、と考えてもいいですが。エロスからアガペーへの昇華、というものを見てもいいのかもしれない。
「僕たちの罪、僕たちの運命」と呑み込んでしまう弟も含めて、そこを今生の兄弟のゴールにしてしまうのは、ちょっと悲しいかな、とは思いましたが。
個人的には、兄弟のこの自傷的な部分を乗り越えて欲しかったな、というのはあります。
兄弟に関しては、この今生のゴールがリンゴを通して乗り換えられた世界でのスタートに繋がる、という感じでプラスアルファの救済がされていますが。
あとパラダイムシフトの中心に居た筈のリンゴちゃんが、代償を晶馬が肩代わりしたとはいえ、乗り換え前の世界の事を一切合切忘れているのは、彼女の救済の為に自分たちを忘れる事を、晶馬が願ったのかな、とか。
物語として一つ面白いのは、最終的に「運命を乗り換える」事を決断するのがリンゴちゃんであった事で、ここで兄弟(のどちらか)がそれを選択してしまうと、兄弟のエゴの中で物語が閉じてしまう。だから「運命を乗り換える」のは兄弟以外の誰かでなくてはならなかった。
リンゴちゃんといえば、そもそもは「自分の家族の再生」の為にモモカの日記にしたがって《プロジェクト・M》を遂行していたわけですが、それが最終的に、「高倉家の再生」の為に自分を犠牲にしようとする、というのも構造的に面白い所。リンゴちゃんに関して、前半からどれぐらいのテーゼや布石が仕込まれていたのかを確認するのは面白いかもしれない。
そしてその裏で、“家族になる”タブキとユリ。
前回のざっくり書いた感想で、「ユリさん妊娠まで描いても良かったのでは」と書きましたが、この辺りの対比を含んでいるとすると、家族になる所までが、美しかったのだろうな、と。
でまた、上で高倉兄弟に対して納得したような事を書いておいてすぐに翻すのですが、この二人こそが真ENDなのかな、と。
世界線の向こうで家族になれなかった晶馬とリンゴの代わりに、タブキ先生とユリさんが家族になる所が強調して描かれた気はします。勿論これは、この二人にとっての救済であるのですが。個人的には、一番救済されてほしい二人だったので、最終的に大きなテーゼを託されたのは嬉しかったです。
ところで終盤の展開から逆に読むと、ユリさんは存外、最初からタブキくんと救済されたかったわけで、凄く可愛くなるから、あら不思議。
男性と女性の違いと言ってしまえばそれまでですが、視聴者へのミスディレクションとユリ自身が恐らく自分を誤魔化そうとしていた部分を兼ねて、男役(女性)と寝ていたり、リンゴちゃんを美味しくいただこうとしたり、モモカ姉さんを愛情の対象として見ていたように描かれていますが、本質的にそうではない。
ユリさんがモモカを取り戻そうとしていたのは、友情もあるけど、女として同じ土俵で戦いたかったのだろうなぁ、と。その上で負けたら仕方ない、というメンタル。女優だから。
後ちょっとした不満としては、乗り換え後の世界で、陽毬ちゃんとダブルHとの関係が切れている(ように取れる)っぽい所かなぁ。別にアイドルになってなくても良いので、幼友達という部分は残っていていいかとは思うので。陽毬ちゃんにとっては両親の事件がきっかけで途切れたと思われる二人との繋がりがまだあったという所が個人的救済だと思うのですが、それは既に乗り換え前の世界で果たされた、という事なのかなー。
……納得したりやっぱり不満があったりで忙しいですが、物語構造の面から読んでいった結論としては、筋の通ったいい最終回であった、と。
私的解釈としての論理的帰結は見えて非常に満足したので、細かい謎とか個々の解釈とかは、割とどうでもいいです(笑)
一つだけ挙げるなら、サネトシ先生に関しては、個人というより「集合意識」みたいなものとして捉えています。核となる人物(16年前に死んだ秘密結社の真の首謀者?)は存在したのかもしれないけれど、あのサネトシ先生自体は、本人が言う所の「幽霊」であろうと。
何の幽霊であるかといえば、社会において何者にもなれす、透明になった子供達の幽霊なのであろう、と。
本人は確か「怨念のメタファー」とも言っていた気はしますが、サネトシは存在しているけど、存在していない。極端な話、例えば秘密結社の黒服構成員一人一人が、サネトシであり、またサネトシではなく、サネトシの一部であり、サネトシの全部である、ぐらいの理解。
図書館(あそこ自体が“集合的無意識の海”でしょうし)で、人の深層意識にアクセスできるのも、そういう事なのかな、とか。
解釈の補強の為に「アガペー」について調べていた所で読んだWikipediaの受け売りでなんですが、


13世紀の聖トマス・アクィナスは、イブン・ルシュドのアラビア・スコラ哲学をモデルに、その反論*1としての壮大な神学大系を築き、神の愛(アガペー)とは、事物(レース)に対する「存在(エッセ、Esse)」の・無償の付与にあるとする見解を明示した。世界と事物、人間は、存在するという事実において、神よりの「エッセ(存在)」の無償の恵みを受けているのである。 しかし、人の存在は信仰によって条件付けられる。 存在することは、それ自体が「善」であり、存在物(レース)における「エッセの欠如」は即ち「無」である。最悪の悪は「無」であり、この世に現象的に悪が存在するとしても、それは存在の恩寵の上で、見かけの現象として現れているものである。
〔アガペー/Wikipedia〕
神学は全く詳しくないので都合のいいところ取りの孫引きになりますが、「存在」が付与された所に「神の愛」があり、「存在の欠如である無」が「最悪の悪」であるとするならば、神の愛を与えられず存在を得られなかったもの、すなわち、
アガペーを与えられなかった存在物=エッセという恩寵を得られなかったもの=こどもブロイラーで透明にされていく予め失われた子供達
から「悪」は生じ(子供達が「悪」なのではない)、引いてはそういった社会システムの中に「最悪の悪」の根はあり、そこから生じたもののシンボルがサネトシ、という事なのかな、と。故にサネトシは存在しているけど存在していない、世界に対する幽霊であり呪いでもある。
まあそうすると、明確に個人であろうモモカ姉さんはどういう存在なのか、という話にはなってしまうのですが。
モカはある種の代行者ではあるのかもしれないけれど、決して誰も彼をも救うわけではなく、まあこの辺りは、これを一つの観点として置いて、12話辺りから遡ってみると、また見えてくるものがあるのかもしれません(実のところ、予め失われた子供達を救うのは、決して「アガペー」に限った話でなく、「エロース」でも「フィリア」でも「ストルゲー」でもいいのでしょうし)。
構造として一つ、人間の生み出した不可侵の(と思われる)社会構造――やむを得ないと受容される社会の歪み――の中に悪の根が存在するとしても、それを断ち切れるのもまた人間の力(=シンボルとしての「ピングドラム」?)である、という事なのかな、と。
正直なところ、「ピングドラムとは何ぞや?」という問いに対して明確な回答を持つに至っていないので、この辺りは、あやふや(なんとなくこんな感じだろうなーという抽象的な答はありますが)。
明確にオウム事件(1995年)をモチーフにした出来事を作中の重要な事件として盛り込んでいる作品にこんな事を言うのも何ですが、時代性とか世代論などには興味が無いので、その辺りには触れません。
一つ言えるとしたら、そういった敏感な部分を背景として取り込みながら、非常に普遍的なテーマ性と、しっかりした物語構造という背骨を持っている事が、今作の面白い、そして優れた所であると思います。
個別の感想で触れてきましたが、まず「物語の行き着く先――陽毬は助かるのか?/助からないのか?」をテーゼとして提示する事により、物語のベクトルを定め、その上で前提の積み重ねやそのひっくり返し方などに、良質のミステリーといっていい構造を持ち合わせている。色々な目くらましの手法も含め、構造的にも、見事な作品でした。
演出でいえば、美術の力(センス)を背景とした、テンポの良さが良かったです。幾原監督の演出は、少々濃すぎて元来あまり得意ではなかったのですが、『ウテナ』の頃と比べるとだいぶマイルドになっていて、見やすかったです。
これも個別の感想で、「可愛い(格好いい)から許される、というフィクションのルールを確信犯的にあざとく前面に押し出している」と書きましたが、前半でそういう事を行いつつ、後半、サイコ臭の抜けたリンゴちゃんがひたすら可愛くなっていったり、前半ぱっとしない感じに演出されていた晶馬が終盤でどんどん格好良くなったり、という辺りの転がし方も巧みでした。
多分これ、直感的にピンと来る人には凄くピンとくる作品だとは思うのですが、そこのところ、理詰めで読んでいってやっと納得できる、というのは、私の性格(というか人格か?)の問題でしょう(笑)
もう少し自分の中で消化しないと、はっきりと評する事は出来ませんが、見応えのあるいい作品でした。

*1:「善の欠如としての悪」に対する