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『渇きの海』(アーサー・C・クラーク)、感想


月面の真空世界において、極めて粒子が細かくまた乾燥している為に、まるで液体の如く流れる無数の塵をたたえた、<渇きの海>。直径100キロメートルに及ぶこの広大な塵溜まりの上を走る遊覧船<セレーネ>号が、突発的な災害により、塵の底に沈んでしまう。金属分を多量に含む塵に船体をびっしりと覆われてしまい、<セレーネ>号は身動きはおろか、電波や音波によって通信を送る事さえできない。遊覧船からの定時通信が途絶えた事から異変を察した月面都市は即座に探索班を送るが、まさか船体が塵の海の底に沈んだなどとは考えられないまま、一切の痕跡を残さぬ<渇きの海>の特殊な地理条件の前に困難な捜索を余儀なくされる。一方、破滅的な被害を逃れた<セレーネ>号には、一週間は持ちこたえられる空気や食料はあったが外部への通信手段は無く、22人の乗員乗客は絶望的な救援を待つ為に様々な問題に直面する……。
まるで液体のような膨大な塵、その下に埋もれてしまった遊覧船。絶望的な状況下で運命共同体として問題と対決する事を余儀なくされる22人の乗員乗客。それを捜し出し、助け出すべく知恵を絞る技術者や科学者達……。
筋立てはいたってシンプル。
舞台が未来の月面・<渇きの海>というSF的な特殊条件、という事を除けば、様々な状況で物語を展開できる非常に基本的なトラブル&サスペンスの構造といえます。
最初に<セレーネ>号に事故が発生し、まずは如何にしてそれを見つけだすのか? 船の方では空気と食料には余裕があるものの、救援は極めて絶望的であり、乗客達をどうやって混乱させずにまとめるか? たまたま船に乗っていた老提督の経験に裏打ちされた指揮によってパニックは免れるものの、今度は船内の温度が急上昇!
船内の人々は救援まで保つ事が出来るのか、そして持ち込める設備重量が極めて制限された<渇きの海>上で、タイムリミットまでに如何にして救援手段を整えるのか……。
一つ問題が解決すればまた一つアクシデント、人間が起こすトラブルもあれば、自然と宇宙の脅威もあり、といった形でテンポよく話は進んでいき、とにかく物語の転がし方が絶妙。一方でサスペンスばかりではなく、救援を待つ間の極めて重要な問題として退屈を紛らわせるべく、乗客達が様々な余興を行うシーンなども効果的に挟まれ、いったい次にどうなるのかというドキドキ感が見事。
ここに、主人公である遊覧船パイロットと老提督、事故の経済的問題に頭を悩ませる月の観光局長が居れば、その対面には難題に雄々しく立ち向かう技術部長があり、<セレーネ>号の発見に一役買う偏屈な科学者、特ダネの匂いをかぎつけた記者、と様々な人間が絡んでいきます。特に連帯と恐慌の危うい狭間に揺れる、<セレーネ>号の乗客達の描写は実に見事で、思わぬ人物が助けになったり、またトラブルを起こしたり、後半におけるあるアクシデントは、物語のスパイスとしても実に巧妙で面白い。
作品通して非常に素晴らしいのは、<渇きの海>の特殊性を除けば、突飛な科学アイテムのようなものは一切登場しない事。クラークの得意技といえる綿密な科学考証のもと、考え得る現実の延長線上に発展した科学の力で、内と外の物語は進んでいきます。
勿論、約50年前の作品(発表は1961年。アポロ11号が月面に着陸したのが1969年!)なので、今ではクラークの想像より遙かに進んだ科学的要素もあるでしょうし、そもそも、月面は微細な塵に覆われていなかった、というのがアポロ11号の着陸によって判明するのですが、フィクションとしてはそれが瑕疵にならない程に、完成度の高い作品です。
そしてそういった物語のディテールのリアリティが内と外の緊迫感を高め、人間達の緊張状態が迫真を持って伝わってくる。ゆえに、月面で<渇きの海>の脅威に打たれる青年科学者と、熟練の技術部長のやり取りなどが非常に味わい深くなるなど、まさしくクラークの真骨頂。
巨匠アーサー・C・クラークの筆致が存分にふるわれた名品。
クラークの事を“凄い”とは書きつつもどうもあまり趣味では無さそうな野田昌宏がべた褒めし、大学受験の直前に原書を入手した伊藤典夫がつい読み耽ってしまって受験を棒に振ってしまったらしい、というのもむべなるかな。
これが約50年前の小説だというのは、凄い、というよりはもはや、恐怖。
クラーク恐るべし。