……まずい、最初の取っかかりで平成仮面ライダーっぽいと思ってしまったせいで、もう、平成仮面ライダーの文脈でしか見られなくなっている(おぃ)
まあ、「少年にとっての仮面ライダー」が、「少女にとっての魔法少女」だと思えば、仮面ライダーの文脈で見てもいい、のか?!
2話では、契約、魔法少女、魔女、ソウルジェム、など基本設定の説明。きゅうべえから契約を求められたまどかとさやかは、命がけで魔女と戦ってまで叶えたい願いがあるかについて自問しつつ、まみの魔女退治についていく事で、魔法少女の戦いを体験することになる。
「変身(契約)」の選択権を主役サイドに預けている、というのが、面白いところ。
特撮ヒーロー物の場合は商業的都合により、「変身する」のを絶対的前提に置かないといけない為、「変身すること」そのものではなく「変身した後」にしか物語を始められないわけですが、TVアニメという媒体により違うアプローチが可能になっている。
例えばこれが特撮ヒーローだったら(そもそも引き比べるものではないのですが、脳がそう見てしまっているので、そういう視点の感想だと思って諦めていただければ幸いです)、きゅうべえを見る力があるという理由で強制的に変身(契約)させられるか、巻き込まれた戦闘で大ピンチになってどさくさで変身(契約)する、というのを第1話まででやってしまうわけです。
で、この力を手に入れたからには戦うしかない、だったり、変身(契約)した自分は戦うべきなのか、戦うのなら何の為に戦うのか、という話になって、物語は、“力を手に入れた所”から展開する。
ところが今作の場合は一つ間を置いて、その一歩手前、「契約するべきか否か」という所に最初の物語性を置いている。
また再び世界を緩めた日常に戻す事で、「変身するか否か」(類例:「ロボットに乗るか否か」)という選択肢をフリーハンドで与えており、これにより、「力」を手に入れる前に「理由」を提示する、という構造になっているのが面白い。
ここで秀逸なのがきゅうべえの提示する契約内容で、
「契約したら何でも願い事を一つ叶えてあげるけど、代償として魔女と戦ってもらわなければならない」
というのは、
願い事を叶える=個人性
人々を呪う魔女を倒す=ヒーロー性
という二つを並立させている。
旧来のヒーロー物では、ヒーロー性と個人の目的が無自覚に一緒くたであった場合が多いのですが、これを分割して、現代にヒーローが成立しうるにはその背景となる個人的な正義や欲が必要ではないか、という思想性をベースに世界を構築しなおしたのが大雑把に平成ライダーなのですが、それが巧く構造的に取り込まれている。
同時に、“願い事を叶えるために魔女を倒す”のか“魔女を倒す(正義の行為の)ボーナスとして願い事を叶える”のか、という矛盾しない主客の二面を、主人公の中で混線させているのが巧い。
ところで、平成ライダー3作目の『仮面ライダー龍騎』は、ミラーモンスターと契約して仮面ライダーになった者がライダーバトルに勝ち残る事で望みを叶える、という基本設定だったのですが、この作品では、人類への驚異と仮面ライダーは存在するが正義のヒーローは存在しない世界で、“正義のヒーローになろうとする”青年が主人公でした。終盤、その主人公の選択によって無駄な人死にが増える事になり、結果として物語的な因果応報により主人公は死亡し、しかし死亡する事ではじめて“正義のヒーロー”として昇華される、というやりすぎた話で、個人的には後半がっくりだったんですが。
というわけで続く3話で、おそらく契約するであろう主人公達が、このまま小さな善意と正義の快感を契約の最大の「理由」とする形で描かれるのかに、興味があったり。