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『仮面ライダー電王』感想総括1

まとめをいつものようにHTMLで最初から打ち込んでいると、色々書く事多くて途中で止まりそうなので、今回は熱量のある内に、こちらで少しずつ書いていこうかと思います。まずは、全体の総括から。


一言に集約すると

であったなぁ、と。
平成ライダー》シリーズはその立脚点として、「現代にヒーローを成立させるにあたり、その背景として無自覚ではない“正義”を再構築しよう」という一つのテーゼを抱えている為、良かれ悪しかれ「正義とは何か?」「ヒーローとは何か?」という問題を捏ねくりまわしがちになります。
時にそれがぴたっとはまり、時にそれが物語を小難しくしすぎ、時にそれが色々やりすぎに繋がったり……と色々あったわけですが、それに対して『電王』を貫いているのは、だな、と。
もちろん今作も、良太郎と侑斗という二人の仮面ライダーを通じて、今作の中でのヒーローの再定義付けというのを物語の中で行っており、その部分もテーマとしてしっかり組み込まれているのですが、最後の最後、実は本作の最初から最後まで、誰よりも長く戦い続けてきた男の姿が浮かび上がる時、その戦う軸になっていたのは、愛であった――。
「正義」が無頓着に伝家の宝刀として振るわれかねないように、「愛」もまたマジックワードであり便利用語なのですが、ここで今作が上手かったのは、その「愛」の焦点を狭めて絞り込んだ事。
近しい人(例えば良太郎)だったり、見知らぬ人々の未来の為だったり、という英雄的大義の要素も多少は含むのですが、しかしそれらはあくまで付属品であって、桜井侑斗が戦うのは愛理とこれから生まれてくる子供の為であり、それは「恋愛」であり、「家族愛」である。
そして何より重要なのは、桜井侑斗にとって未来はおぼろげなものではなく、そこに確かに「これから生まれる子供の未来」が存在している、と知っている、という事。
だからこそ桜井侑斗は、「未来」を守る為に、あそこまでの覚悟を決められた。
「愛」というマジックワードを薄っぺらいものにしない為に、それを「家族愛」に集約し、その上で、「個人の理由」と「未来を守る意味」を繋げる、という入念な仕掛け。そしてそれが物語を貫く鍵となる――。
今作の解き明かされた構造というのは、突き詰めれば、自分自身に加えて自分の義弟(予定)と過去の自分自身さえ囮に使って、桜井侑斗がカイに無理ゲーを仕掛けた、とでも言うべきものであり、その“もう一つの戦い”は、「家族を守る為」という桜井侑斗の個人的なヒロイズムに集約されます。
その意味で今作は、最後に愛が正義を飛び越える、という、《平成ライダー》の抱えるテーゼを別角度からひっくり返すような事をしながら、しかし同時に、これ以上なく《平成ライダー》のテーゼを描いている。
勿論、シリーズを重ねる事でシリーズの持つテーマ性の変遷、というのもあるわけですが、その点で『電王』は非常に根っこの所を描いてるし、ヒーロー物である事を自覚的に大事にしていた、と思います。
表向きのお笑い要素で攪乱し、「ヒーローらしくないヒーロー」と言われそうなものを描きながら、一方で非常に地道に「ヒーロー性」というのものを物語の中で積み上げており、良太郎、侑斗、イマジン達、そして桜井侑斗、が「ヒーローとして成立する」姿を描いている、というのが、実は今作の芯。
そこを貫いた所こそが、今作を傑作たらしめた一つの理由であり、メタ的に言えばその「ヒーロー愛」に訴えかける部分が、愛される作品になった理由の一つであり、見ていて気持ちのいい部分なのかな、と。
で、なぜ今作がかたくなに「ヒーローを描く」事にブレていなかったかというと、実は物語の最初から最後まで、誰も知らない「一人のヒーロー」が居たからだ、という桜井侑斗の存在は、これまたメタ的な部分も含めて、まさにお見事。
だから『電王』は、愛の物語だったのだなぁ……と、思うわけです。
…………て、あー、これ書いていてようやく気付きましたが、振り返れば劇場版の主題の一つが、「家族」だったのか!
『電王』は家族愛の物語である、というのは、既にその時点で暗示されていたのか。
そう見ると、野上家が姉弟二人きりの家族である、という意味もまた出てきますし、これは本編では一切語られていないので勝手妄想の類になりますが、古い望遠鏡を大事にしている描写など、桜井侑斗もまた、家族が健在というわけではないのかな、とも思わせます。
とすると、「失わせない為の物語」であった『電王』にもう一本、「失ったものを新たに手に入れる為の物語」という側面も浮かび上がって、桜井侑斗と野上愛理があそこまでした理由、というのもより強固になり、実によく出来ています。
なればハナさんが、一度失った時間を取り戻すに際して、ある種の転生をする事になったのは、必然であったのかもしれない(とまで行くと強引(笑))。
桜井侑斗もある種、転生の道を選んだ、とも言えますし。
まあこの辺りの時の流れと輪廻の問題は、深く考えるとSF的に大変ややこしくなるので、深く考えない方向で(笑)
作品も大筋の合理性以外の所は、「ノリがいい方が勝つんだよ」理論(理論?)で突破しましたが、結局こういうのは全体のプラマイの問題なので、エンターテイメントして良かったと思います。
時々誤解されますが、フィクションのエンターテイメントにおいて、エンタメ性というのは常に上位存在であり、時に劇中の制約を上回ってでも、エンターテイメントしている方が正しい事がある、という事こそフィクションの力であります。
勿論、エンタメ性を万能視するあまり、エンタメ性が劇中の物語法則を食い破り過ぎるようなことがあれば、それは物語を白けさせてしまい、結果的にエンターテイメントとしての価値を損ない、例えばご都合主義などと批判される事になります。
しかしご都合主義というのは必ずしも悪ではなく、世界のリアリティや物語の合理性よりも、エンターテイメントとしての劇的さが勝るべき所がある……要するにその使い方のバランスの問題、なのですが、その点において今作は、非常に筋道とエンタメ性のバランスが良い作品、でありました。
丁寧な積み重ねと、劇的な突破。
両者が上手く噛み合った、優れたバランス感覚であった、と思います。
イマジンに触れる前にけっこう長くなったので、この項、続く。