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『アメリカン・コミック史』(東洋書林)覚え書き<後編>

THE HERO―アメリカン・コミック史

THE HERO―アメリカン・コミック史


 「スーパーヒーローのふりを演じてわかるのは、自分がそうではないことだ。だが、向こうにいる誰かと自分は似ているようにも思う」
アダム・ウェスト
グウェン・ステイシーの死からおよそ1年後、1950年代の西部もの、1969年にドン・ペンドルトンが生み出したエクセキューショナー、映画『狼の挽歌』(1974)などの自警団的キャラクター史に連なる私的正義の執行者としてやがては独立したタイトルキャラクターになっていくパニッシャー(元ベトナム帰還兵)が、スパイダーマンの前に登場。同じく70年代には、ベトナム反戦運動の中でキャプテン・アメリカも自身の生き様への強烈な懊悩を吐露する事になる。
かつて枢軸国に戦いを挑んだスーパーヒーロー達の世界に、ベトナム戦争やニューヨークの犯罪増加といった現実社会の葛藤がその影を伸ばしていく事になるのですが、この時期の興味深い副産物が、反ドラッグ・ストーリーを一つのきっかけにCCA(コミック倫理委員会)の規制が若干改定され、それまでコミックで使えなかった「人狼」や「吸血鬼」などに関する規制が大幅に緩和される事。
これにより1970年代、吸血鬼、狼男、ミイラ、ゴーレム、知性を持った植物、などなど、モンスターの属性を持ったヒーローやヴィランが大挙登場する事になったそうなのですが、コミックが現実と共振を深めていた同時期に、ホラーとテラーの世界がコミックに帰還し満ち溢れていた、というのは面白い。
またこの頃、ライセンス事業が活発化していき、玩具会社とコミック版元の関係が深度を増して複雑化。

 各業界は、Kマートやトイザラスの通路にところ狭しと並べられる無数のロボットやエイリアンやアクション・ヒーローのフィギュア販売を支援する為の、終わりなき物語を包括する複雑なマルチプラットフォームを形成しつつ、21世紀に向かって以後何十年と相互的に機能していくのだった。
と今日の私たちにもわかりやすい構造が形をなしていく事に(この時期、マーベルは封切り前に『スターウォーズ』のライセンスを取得する)。
なおこの辺りで『ミクロマン』と『トランスフォーマーズ』の名前は出てくるのですが、東映との提携による『スパイダーマン』や『バトルフィーバーJ』については触れられておらず、残念。
マーベルがケイデンス・インダストリーズの系列会社に、DCがキニー・ナショナルカンパニー(後のワーナー・コミュニケーションズ)の傘下に入りそれぞれの運営手法が変化していく中、マーベルのグッドマン社長は巧妙な値段設定によりDCを出し抜く事で、コミックブック界の覇権を握る事に成功。だがDCにはあの男が居た――1978年12月15日、『スーパーマン』が映画として飛び立つのである。
製作が遅れながらも完成した映画は大ヒット作となって続編も生み出し、またこの制作中、版元との契約や法廷闘争での敗北から長く不遇を託っていた二人の人物――スーパーマンの生みの親であるジェリー・シーゲルジョー・シャスターが、一定の権利を回復する。

 とはいえ、こうしたすべてのごく始まりのとき、すでに最高のハッピーエンドが顕れていた。映画の上映開始から約3分、人生に疲れ果てた2人のコミック作家が、スクリーンを高く舞い上がるかのようによぎっていく、太字で書かれた自らの名を目にする機会を得たのである。
1975年には、1970年に一度は打ち切られた『X−メン』が、『シルバー仮面ジャイアント』じゃなかった、『ジャイアントサイズ・X−メン』として新編成で復活。『超人ハルク』に登場して人気を博していたウルヴァリン(カナダ人)などを集めた、多国籍ヒーローチームという切り口で人気を得る事に成功(日本産ヒーロー、サンファイアが気になります)。
そして、『X−メン』のミュータントであるという人間社会に対する本質的な疎外感、その抱える英雄的なジレンマが読者の共感を呼び、初の多元文化的なスーパーヒーローチームは、80年代にはアウトサイダーのイコンとなり、拡大し続けるその世界は非常に大きな成功を刻んでいく事になるのであった。
かつてはキャンディ・ストアや文房具店、ニューススタンドの一隅で売られていたコミック・ブックだが、1970年代になると専門店が生まれ始め、80年代には市場の75%以上を直売店が占めるようになっていた。一方で売り上げの数字は最盛期の40年代に遠く及ばず、版元各社は玩具会社などとのとのクロス・プロモーションも含め、テコ入れの為の“仕掛け”を模索する事になる。
1985年には、連続シリーズものの一つの頂点として、『クライシス・オブ・インフィニット・アース』が登場。多岐に分裂したDCの無数のアースを、整合性を持った一つのユニバースに統御しようという野心的な叙事詩(←筆者の好みなのか、アメコミ業界における常套句なのか、この表現は本書中に頻出)が描かれ、物語の中ではスーパーガールや白銀時代のフラッシュが葬られる事になる。
……ここで紹介されている図版についたキャプション「人類と連載のために最後の犠牲を払うフラッシュ」は、どう受け止めればいいのですか(笑)
このような物語上の――合わせて商業的な――仕掛けは後の1992年、ドゥームズデイによるスーパーマンの死によって一つのピークを迎えるが、それは同時に投機的なコミックスの購入とその市場の崩壊へと繋がっていき、コミック専門店の大幅な減少にも少なからず波及するのであった。
1987年、スーパーマンに取って代わってアメリカ最大のコミックヒーローとなっていたスパイダーマンことピーター・パーカーは、“ジャックポット”メアリー・ジェインと結婚。この結婚はコミック内の出来事というだけではなく、現実の野球場を借りた大々的なイベントをともない、全米の主要メディアにこぞって取り上げられる事になる。
PRイベントとしては空前の成功を遂げたスパイダーマンの結婚だが、一方で作り手達は、50年近くなったコミックの歴史が生んだ一つの問題に直面していた。スーパーヒーローとその周囲のキャラクターを追いかけながら日々を暮らしてきた忠実なファン層により生まれた、スーパーヒーローが高齢の読者に愛好されるという状況はコミック業界の大きな成功であり改革であったが、果たしてヒーローは、年経た古いファンと、生まれ続ける新しいファンと、どちらを向いているべきなのか? 「素晴らしいファンタジー」と「現実」の境界は、どこに線を引かれるべきなのか?

 スパイダーマンを10年、15年と呼んできた我が身に引き比べて考えれば、共に年を重ねてきたキャラクターが結婚し、あるいは結婚を考えることにも納得がいくだろう。だが実際のところ、入れ込んできたそのキャラクターを、とうとう次世代の読者と共有することになる。どこで加齢を止めればいい? ピーター・パーカーに子供ができたときか? さらに年を重ねて孫ができたときか? 彼が死んだときか? さすがに、そこまでは無理だろう。
(ジョー・ケサ−ダ)
基本のスタンス(児童向け販促作品)が確固としているので事情はまた異なりますが、90年代以降、東映ヒーローが志向する、“如何にして親子二世代へ向けた作品を作っていくのか”という姿勢はこれに通じた悩みかな、と思うところ。『海賊戦隊ゴーカイジャー』という大きな仕掛けを経て、近年の10years afterシリーズなどはまさに大人向け作品ですが、『デカレンアフター』『スペース・スクワッド』においてキャラクターの結婚が描かれたのは、これら先行作品への意識もあったのかも(荒川さんの趣味ではなかろうか説もありますがげふんげふん)。
1986年、フランク・ミラーによって60歳近いバットマンが描かれる『ダークナイト・リターンズ』が発表。40年代の冒険ヒーローが、非情にして確固不動な私的正義の執行者として街の闇の中に甦ると、1989年公開の映画『バットマン』は大ヒットを飛ばす。
フランク・ミラーアラン・ムーア、グラント・モリスンら新世代のコミック作家が台頭する中、DC、マーベルの二大巨頭は、先に直面した問題への一つの回答として「成熟した読者を志向する」市場を意識し、一冊完結の単行本形式の媒体としてグラフィック・ノベルが誕生、コミックの世界にペイパーバック商法が持ち込まれていく。

 コミック史が60年目に突入して明らかになったのは、長年の読者がどこへも行かず、30代、40代になってもコミックを読み続けた代わりに、フラッシュがミラー・マスターの銀行襲撃を阻むといった昔ながらのストーリーを、誰も歓迎しなくなったことである。人生の経験を積んで大人になった彼らは、コミックブックにも成長と発展を求めたのだった。
これなんかも本邦だと、特撮ヒーロージャンルが一番重なるのかなぁと思う述懐です。
そして1986年夏、脚本:アラン・ムーア、画:デイヴ・ギボンズにより、後に『タイム』誌の「史上最高の小説100」にコミックブックとして唯一選定される、『ウォッチメン』がスタート。『ダークナイト・リターンズ』と合わせて、スーパーヒーローに関する定型化していた理解を根底から覆す作品として、アメリカン・コミック史上に位置づけられる事になる。

 「マスクをつけて犯罪者を叩きのめすためにあちこちを訪ね回る。そうした人物は、実のところ自警団の顔をした精神異常者だ。満々とした復讐心に突き動かされるバットマン型の自警団的人物が実在するのなら、果たしてそれはなんだろう? 手短に答えれば、こうなる――狂人だ」
ジャンパーソン・フォー・ジャスティス!
……発作です。
1992年、エリック・ラーセン、トッド・マクファーレンジム・リーら、同時代屈指の技量を持っていた7人のアーティストが、合わせて業界シェア95%を誇っていたDCとマーベルの2社と決別し、作家自身がそれぞれ作品の権利を保有するイメージ・コミックスを創設。アーティスト主導の理想郷としては限界を露呈するも、『スポーン』『サヴィッジ・ドラゴン』『ウォーキング・デッド』などのヒット作を次々と送り出し、創業20年を過ぎてもなお、健闘を続けている。
代表的な作品の中で、20年続きアニメにもなったという『サヴィッジ・ドラゴン』は全く初耳だったのですが……頭にモヒカン的な鰭のついた緑色のいかつい主人公はそれは、日本に大々的には入ってこないか……。むしろあの、『スポーン』の瞬間的な沸騰はなんだったのだろう。
同じ1992年には、マーベル作品『アルファ・フライト』において、ノーススターがゲイである事を宣言し、スーパーヒーローコミックにおける、初のオープン・ゲイのキャラクターとなる。ホモセクシャルに関する表現は様々な物議をかもすが、2006年にはイメージ・コミックス系列作品『オーソリティ』において、スーパーマンバットマンの化身めいたキャラクター、アポロとミッドナイターがヒーローコミック史上で初めて婚姻関係を結んだゲイ・カップルとなり、2012年にはノーススターが恋人カイルと結婚。そして2006年には、レズビアンのキャラクターとしてバットウーマンが再登場する事となる。
また、90年代に「冷蔵庫の中の女性」(『グリーン・ランタン』のガールフレンドが惨殺される悲痛なエピソードに由来)というブログにおいて、「殺され、不具にされ、力を奪われた」コミックブックのスーパーヒロイン(そしてスーパーヒーローのガールフレンド)の長大なリストを作り上げ、コミックヒーロー業界における男性主体の視点を糾弾したファンであり、後に自らコミック脚本家となったゲイル・シモーンが、2003年に真に唯一となる全員女性の主流スーパーヒーロー集団<バーズ・オブ・プレイ>(「猛禽類」)を担当。
チームを率いるオラクルはジョーカーによって半身不随にされた元バットガールで、断固としたキャラクター性でコミック界有数のキャラクターと評価される事になる。更に、70年代に大変不遇な扱いを受けていたミズ・マーベルもアベンジャーズの戦列に復帰すると、殉職したキャプテン・マーベル(40年代に大活躍したフォーセットコミックスのキャプテン・マーベルとは、全くの別人……なおこちらはDCに版権を買われてシャザムとして復活するとの事)のマントと名を引き継いでその後継者となり、コミック界におけるスーパーヒロインの存在も少しずつ改善と発展がなされていくのであった。
ここで紹介されている図版で、シーハルクに腕相撲で負けるトニー、を見るキャップの視線が虫を見るようで、やたら面白かったです。
2001年9月11日――同時多発テロによりアメリカ国民を襲った深刻な衝撃は、コミックの世界にも波及。より重層的な構造の物語がジャンルの主流を占めていく事になり、その流れは後に、ヒーローと世界の在り方を問い、分断と内乱を招く『シビル・ウォー』を生み出す事になる。

 「自分とマーベルの全員にとって、それが我が社の本で扱うべき事柄であることは明らかだった。さもなければ鈍感のそしりを免れないだろう。あのタワー群を振り子さながらに横切るスパイダーマンは、我が社の、我がユニバースのものだ。第2次大戦を闘い、公民権運動を始めとする万事を経験したキャラクターもまた、我が社のものなのだ」
(ジョー・ケサーダ)
ビジュアル面でのオマージュらしきものは散見されていましたし、後継作品といえる『ジーザス砂塵航路』においてはクロスオーバーギミックが扱われますが、私の愛するマンガ『闇のイージス』(作:七月鏡一/画:藤原芳秀)が、9.11を劇中に取り込んでカウンターテロの物語へと舵を切っていたのは、こういったアメコミの手法に対する強い意識があったのだろうか、と今更ながら思うところ。
2002年には、実写映画作品において長らくDC/ワーナーの後塵を拝していたマーベルが念願の『スパイダーマン』で成功を引き当て、相前後した『X−メン』の好評もあり、続々と大作映画を送り出していく事になる。こうしてCGIの発展がようやく満足いくマーベルコミックスの実写化を可能とし始めた一方、DC映画では『ダークナイト』3部作により、バットマンが復活。9.11以降の「新たな常態」において不安を抱えるアメリカ社会において、現代的なスーパーヒーロー像を銀幕の上に踊らせるのであった。

 つまりバットマンは、75年近いスーパーヒーロー・ビジネスの果てに、誰もが心のヒロイックな断層に火をつけられるような充分な鼓舞を行える人物となったのである。
 (中略)
 バットマンは報復のために戦う人物で、文明が配置した奇矯で恐ろしいあらゆるものに宿る一方、黒マスクと黒マント姿の単なる普通の人(エブリマン)として、消耗と再生に存在を委ねながらも正義を求めるのである。
2009年、ワーナー・ブラザーズ内にDCエンタテインメントが設立され、一方のマーベル・エンタテインメントは、ウォルト・ディズニー・カンパニーによって買収される。スーパーヒーローの存在は、映画、アニメ、ゲームといった様々なメディアに拡大し、2012年、コミックブックの売り上げは約3億ドル、スーパーヒーロー映画は世界市場で35億ドルを稼ぎ出し、国際コミックコンは13万人を集める。2008年、オバマ大統領はコミックファンである事を公言し、文化史家のブラッドフォード・ライトは現状をこう語る。
――「我々はひとつの「コミックブック・ネイション」になったのである」と。
……覚え書きとしては少々長くなりすぎてしまいましたが、1938〜2013年まで、500点を超える図版と多数の証言を交えてアメリカン・コミックの歴史をまとめた読み応えのある一冊でした。
なお、レトコン(コミックブックのキャラクターの連続性を過去に遡って変更する「遡及改訂」)、リブート(あるキャラクターを完全に、或いはほぼ完全に創り直す「再起動」)を悪い面も含めてその事例に触れた章を始め、自分用にわかりやすく概略をまとめるにあたって割愛した部分も多々あり(特に作家の名前など)、実際の書籍はより濃い内容である事、整理作業中に私の読解力の問題で事実誤認をしている可能性があるかもしれない事を、付記します。
近年、映画やゲームなど派生作品に触れる機会が増え、興味は増しているものの未だ実物をしっかり読んだ事がないアメリカン・コミックですが、アメリカ現代史と密接に関わるその発展の歴史を通して、豊穣な世界の一端に触れる事ができて大変面白かったです。
特に、<前編>でも触れましたが長年どうもよくわからなかった、『スパイダーマン』というヒーローの立ち位置が、多少なりとも理解できたのは大収穫。あと、後半に第3世代のアーティストとして紹介されていたダーウィン・クック『ニュー・フロンティア』が、デフォルメを効かせた絵柄(だいたい糸目)が雰囲気良くて、こういう方向性もあるのか、と印象深かったです。
『ホームカミング』前の良い予習にもなりましたが、とりあえず『アメイジングスパイダーマン』の1と2を改めて見ようかなぁ……。あと、『ダークナイトライジング』。

 「誰もがヒーローになれる。小さな男の子の肩に上着をかけて、世界は終わっていないことを知らせる。そんな単純な励ましになる何事かをなせば、その人物もまたヒーローなのだ」
バットマン