最終的には
ファンが抱く「種牡馬になれない→残念だね」という心の動きの背景に、「競馬はブラッドスポーツだから」以外で一体どんなバリエーションがあるのか、という点に絞れば、個人的にはかなり興味があります。みなさん、どんなものでしょうか。
DNAと馬とゲームの規則/『傍観罪で終身刑』
「競馬はブラッドスポーツだから」
という結論に辿り着いてしまうかもしれませんが、つらつらと、思う事を書いてみたいと思います。
例えばブルーコンコルド引退→乗馬、に関しては「なんか残念だなぁ」とは思ったのですが、特に思い入れのある馬ではなく、もとより競馬に際して血統面を考察するタイプでない事もあり、その方面への知識や思い入れがあるわけでもなく、さてでは自分の感慨はどこからやってきたのであろうかと改めて考えると、自分自身にとっては、一つの“先入観”なのかもしれません。
私はゲーム(光栄『ウィニングポスト』シリーズ)から競馬に入った口なのですが、最初の内は重賞勝って、G1勝って、が目標になるわけですが、段々ゲームを進めていくと、自分の作った(買った)馬を種牡馬入りさせる、という副次的な目標が出てくる。あわよくば自分の牧場で管理して種付けして子供にG1勝たせて、目指せリーディングサイアー! という話になってくる。
勿論これはあくまでゲーム的な“ご褒美”の構造でありますが、このいわば
「一つのハッピーエンドとしての種牡馬入り」
という先入観が、現実の競馬を見るに際して一種の刷り込みとして自分の中にある事は間違いありません。
ゲームから入った人が全てそうとは思いませんし、競馬に触れていく中で、どうやらただ種牡馬になれればいいというものでもないらしい、などという事はわかってはくるものの、この思い込みそのものは、正直、私の中にかなり強く根付いています(というか、改めて自己分析してみると、根付いている事がわかった)。
私にとっては、そういうこと、なのかなと。
さて折角なのでもう少し話を広げて、私の思い込みを無視した所で、では一般的に競走馬にとっての「あがり」「ハッピーエンド」とは何だろう?と考えると(話をややこしくするの避ける為、ここでは牡馬に限って考えさせていただきますが)、こればかりは実際にアンケートでも取ってみないとわかりませんが、馬にとって「あがり」とか「ハッピーエンド」が必要か否か、という話はさておけば、「種牡馬入り」という回答は、かなりの確率で返ってくるのではないかと思います。
極端な言い方をすれば、これは一種の共同幻想ではあるのでしょうが、競馬というものがある程度、「名馬の子供が名馬だといいなぁ」というメカニズムというよりもファンタジーに寄っている以上、この
「ひとまずのわかりやすいハッピーエンドに至らなかった事」
が「残念だね」という感嘆の背後にあるのではないかと考えるのは、個人的には非常にわかりやすいです。
もう少し違った見方をすると、「勝ち星を重ねた馬」「賞金を沢山稼いだ馬」にはそれに見合った報賞があるべきだ、という観念或いは理想と希望が先にあり、その最もわかりやすい形としての種牡馬入り(当然、血統に名を残す、という価値を含め)がなされなかった時に、
「残念だね(現実はせちがれえなぁ)」
という人の世になぞらえた嘆息、というのがあるのかもしれません。
競馬におけるリアルとファンタジーの間に漏らされた吐息、というか。
まあ更に話を広げると、「人の考えるハッピーエンド」と「馬にとってのハッピーエンド」もまた違うのだろうなあ、という話になってきて、これ以上は余生問題も絡んで、情緒とか倫理とか哲学の話とかにもなったりしそうなので踏み込みませんが。
もっとも、そういう点から見ると、問題は「種牡馬になれるか否か」であるよりも、「ハッピーエンドを見られるか否か」なのですが…………うーん、しかし、
乗馬として大活躍するブルーコンコルド < 種牡馬として大成功するブルーコンコルド
と自然と考えてしまう以上は、競馬というスポーツの本分からは逃れられないか。……逃れてどうする、という気もしますが。……段々、別解探し、みたいになってきてしまった所で、ひとまず筆を置きたいと思います。
……なんか結局、「競馬はブラッドスポーツだから」という前提の上に、その手前の話をしただけになってしまったような気がしますが、現時点での引き出しだとこのぐらいの所をぐるぐる回るのが関の山のようです。
裏を返すと、競馬に関しては、割と情緒面の話しか自分は出てこないのだなぁ、とよくわかった。