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久々に石持浅海

セリヌンティウスの舟』、読了。

セリヌンティウスの舟 (光文社文庫)

セリヌンティウスの舟 (光文社文庫)


2年前、スキューバダイビングで訪れた沖縄で大時化に巻き込まれ、波間を漂う羽目になった6人。幸いにも救助された彼らは、年齢も職業もバラバラながら、強い絆で結ばれる事になった。それから月に1度ほどのペースで一緒にダイビングに行き、打ち上げをする、そんな日々が続いていたある時、仲間の一人、米村美月が青酸カリを飲んで自殺した。それも打ち上げの後、皆が寝静まった夜に――。
四十九日の法要の後、打ち上げの場所でもあり美月の自殺した場所でもある、仲間の一人、三好の家に再び集まった遺された5人は、彼女の自殺についてそれぞれの想いを整理しようとする中で、その自殺に不自然な点を見つける。何よりも固い絆で結ばれた彼らが、美月の死が孕む矛盾を解き明かした時に辿り着く答とは――。
2007年以降に次々と刊行された短編集の出来が標準程度で、短編の執筆頻度が増えた事で文章のテンポが崩れた事が長編に悪影響を与えた(と私は思っている)事で総合的に評価が下がり、ここしばらくは熱心に追いかけてはいなかった石持浅海の、読み落としていた第6長編。
傑作『扉は閉ざされたまま』と同年の発表で、くしくも『扉は……』同様に、いわゆる本格ミステリの形式そのものに題を取ったプロットとなっています。
『扉は……』は、扉が開く事によって謎解きが始まる密室殺人事件に対し、倒叙形式により密室に死体があるのは読者に明らかにされながら、なぜ「密室殺人を行わなければならなかったのか」を扉が閉ざされたまま突き詰めていくという作品。
この『セリヌンティウスの舟』は、外部の人間が存在しない環境で不自然な点のある自殺が発生し、しかしその場の誰もが生死を越えた絆で結ばれているが故に犯人になりえる筈が無く(少なくとも主人公はそう考えている)、ならば何故そこに不自然な点が生じたのか? “疑う”為ではなく、“信じる”為にひたすら推理が行われる、という作品。
物語は、美月の死によって遺された5人、児島克之(語り手、一応の主人公)、三好保雄、磯崎義春、吉川清美、大橋麻子が、彼女の死を整理しようと集まり、その中でその自殺?に不審な点を見つけ、それについて語り合うという、形で進みます。
基本、5人が会話しているだけという、作者お得意の議論シーン中心の筋立て。
青酸カリの入手経路なども含め、警察の捜査は自殺で確定している中、彼らの見つけた些細な違和感。その違和感を追いかければ追いかけるほど増える矛盾。何故なのか――? 巧みなのは、荒海での漂流によって生まれた6人の精神的繋がりの描き方で、勿論そこで読者に首をかしげられると作品の根本が崩壊しますので作者も力を入れたとは思われますが、なるほどそういう事もあるかもね、と思わせるぐらいには書けていると思います。
もっともこの、根っこの所が凄く感覚的、というのは石持作品に共通しがちな両刃の剣ではあり、そこで引っかかると全部ひっくるめて首をひねりたくなる、というのは作者の欠点といえば欠点。私なんかは気にならない事が多いのですが(例えば、『扉は……』の犯人の動機にも小説としては充分納得がいく)。
ここで一つポイントとなるのが、彼らの感じた違和感というのが、警察を含め外部の人間(時に読者を含む)からはどうでもいい事であるが、そんな仲間である彼らにとっては重要である、という事。
物凄く些細な事、「なんとなく」とか「たまたま」で済ましても問題の無さそうな事、についても引っかかりがあれば、推理と議論が行われます。
読んでいて、なんて馬鹿馬鹿しいものを書くのだ、と思うレベル。
しかしこの“馬鹿馬鹿しさ”こそが作者の仕掛けであり、「友の死を思うあまり些細な事全てに意味を見いだそうとする」馬鹿馬鹿しさは、「トリックに拘泥するあまり人間の死そっちのけで些細な事全てに意味を見いだそうとする」馬鹿馬鹿しさに対するカウンターなのです。
読み物としてどちらが面白いかはさておき、これはそういう意味においてはもはやアンチ探偵小説であり、人間が人間の死に向き合うという話をミステリの土俵で展開しようという、この当時の作者の尖り具合には感心。その上でアイデアのみに溺れる事なく(そしたら、トリックがあればいいのだ、という作品と同じになってしまう)、しっかり話をまとめている所は素晴らしい。
たぶん作者も、書いていて途中でかなりつまらない箇所とかあったのではないかと思うのですが、それでもこのプロットを長編に仕立て上げてしまったのは凄い。
なお、念のために書いておくと私はミステリが嫌いなわけではないですし(嫌いならそもそも今作を読んでいない)、作者はむしろ“ミステリを好き”なタイプだとは思うのですが、好きゆえのカウンターを放てる人、なのだと思います。どこまで自覚して書いているのかはわかりませんが。
基本的に、本格ミステリというのは、ある程度の“馬鹿馬鹿しさ”を内包するジャンルであり、問題はその質と、ミステリマニアのミステリ作家があまりに馴染みすぎて自分の書いているものの“馬鹿馬鹿しさ”を忘れてしまう事にあると思うのです。
そんな本格ミステリというジャンルの抱える馬鹿馬鹿しさを俯瞰で捉え、その馬鹿馬鹿しさに意味を持たせる事によって“物語”を成立させるという、「物語」にこだわりを持つミステリ作家・石持浅海ならではの、異形にして極北の、佳作。
感想を一言に集約すれば
ここまでやっちゃたか
というもの。
現在進行形の作家をわかりやすい型にはめて評論しようというやり方は好みではないのですがしかし、デビュー作『アイルランドの薔薇』に始まり、『月の扉』『水の迷宮』『BG、あるいは死せるカイニス』『扉は閉ざされたまま』、そしてこの『セリヌンティウスの舟』までの長編6作をもって、“第1期”石持浅海と評したい。
逆にいえば、この『セリヌンティウスの舟』でやる所までやってしまったので、一段落してしまった、というか。
それほどまでに、辿り着いてしまった、作品。この時点でここに行ってしまったのなら、その後しばらく、遡って回遊しているのも仕方ないか、という気がします。作者には、数年の内に、もう一度、ブレイクスルーを期待したい。
小説として面白いかどうか、と問われれば、評価は今ひとつになりますが、『月の扉』『扉は閉ざされたまま』辺りが好きな方には、一読をお薦めします。この3作は、2000年代の日本ミステリ界において、北の果ての方に連なっている一つの山脈として評価されるべき。