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2012年に見る『ゴジラ』(1954)

去年、『美女と液体人間』で締めたので、年明けは、『ゴジラ』(初代)で初めてみました。


日本近海で、原因不明の船舶の沈没事故が多発する。ただ一人生き残った大戸島の漁師が船を襲った巨大生物について語るが、誰にも信じてはもらえない。一方で村の古老は不漁の続く海を見て、古い伝説に伝わる「ゴジラ」が原因なのではないか、と語るのだった。そしてある夜、激しい嵐に紛れて、巨大な何かが、島に上陸。多数の家の損壊や、死亡者を出す。村の陳情団により、ただの嵐ではなく、上から何かに踏みつぶされたような被害だ、という報告がもたらされ、古生物学者・山根恭平博士を初めとする調査団が島に派遣される。
島を訪れた調査団は、放射性反応を見せる、巨大な足跡を発見。そして彼等の前に、全長50mはあろうかという、巨大な生物が姿を見せるのだった――!
邦画史上、最も良くできた、反戦映画。
というほど、邦画も戦争映画も見ていませんが、60年近く経ってもこうして残っている事を思えば、過言ではないと思う。
東京へ上陸して破壊の限りを尽くすゴジラの姿は空襲ひいては戦争の象徴(メタファー、というよりはもっと露骨)に他ならないでしょうし、燃え上がる街の向こうに、ゴジラの黒い影が浮かび上がる映像は圧巻。
一つ面白いのは、ゴジラを見る民衆の視点と、ゴジラを語る為政者&研究者の視点が、全編通して乖離している事。
「水爆に耐えた生命」であるゴジラを抹殺するなど言語道断で研究の対象とするべき、という山根博士は行きすぎにしても、ゴジラが出て対策を考えなくては、という辺りでは為政者などの姿が諷刺も交えつつ描かれるのに、実際にゴジラが上陸した後は、そういった人達の姿はほとんど画面から消え、民衆の姿に焦点が移る、というのも象徴的ではあります。
もっとも公開当時には、劇場において国会議事堂の破壊シーンで拍手が起こった*1という逸話も残っているので、むしろ50年代当時の人達の方がもう少し軽い視点で見る事が出来て、時間を経過した我々の方が、戦争カリカチュアとしての部分がより色濃くどぎつく見える、というのがあるのかもしれません。
この映画の設定の巧さは、劇中初期にゴジラを「水爆に耐えた生命体」と定義づける事によって、「そんな生物を倒せるものか」と現行兵器が通用しないという理由付けをしている事。同時にこの一言で、圧倒的なゴジラの理不尽さと暴力を全て説明している。
勿論、殴って勝つ事だけが全てではないので、ロジックとしては穴があるのですが、劇中に説得力を保たせるには、これで十分。
そして超兵器オキシジェン・デストロイヤーが登場する。
純粋にシナリオだけ見れば、禁じ手に近いのですが、そこにロマンスと物語の最も重要なテーマ性を含める事で、ストーリーとしては何とか成立する所に落としこんだ感じ。
ラスト、最後の作戦の時に流れるテーマが終始ちょっと切ない感じのメロディーラインなのは素晴らしい。
改めて面白いと思った事の一つは、この第1作におけるゴジラの扱いは、怪獣、というよりも、より生物、である事。これはまあ、その後の色々な怪獣を見ているが故の比較、というのもあるかもしれませんが、あくまでもジュラ紀後期から生き延びてきた巨大生物、という面の方が強く、変則的な巨大怪獣(放射能火炎を吹きますが)、としてだけは描かれない。
物語序盤、大戸島の古老が言い伝えの巨大生物「ゴジラ」について語り、民俗学的要素を入れるのは常套手段とはいえ、この場合は安っぽくなるだけなのでは……? と思っていると、実はそれが、水爆と関係ない以前から、「ゴジラ」と言い伝えられる巨大生物が存在していた、という伏線になっているのは見事。
水爆実験により莫大な放射能を帯びてこそいるものの(後には水爆実験の影響で巨大化した、みたいな扱いになっている事が多いですが、実は第1作ではそういった断定的な言及はされていない、台詞の聞きもらしがなければ)、東京へ出現したのも水爆実験で住処を追われた為(むしろこちらの点が劇中では強調される)であり、もともとは地球のサイクルの中に存在していた生物。故に山根博士は少々行きすぎではあるものの、ゴジラの抹殺を是としない。
原爆、水爆、そして今またオキシジェン・デストロイヤーを手にした我々こそが、地球のサイクルから外れた存在ではないのか――?
後に巨大怪獣の代名詞的存在となるゴジラですが、この第1作においてはむしろ、怪獣というより既存の生物であるからこそ、その対比が色濃くなり、テーマ性を際立たせる部分を持っていたのだと思います。
それにより、山根博士の、かの有名な台詞もより重い意味を持つ。


「あのゴジラが、最後の一匹だとは、思えない。……もし、水爆実験が、続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界のどこかに現れてくるかもしれない」

映像的には、編集の繋ぎの荒さとか今見ると仕方ない部分で気になる箇所はありますが、特撮における、リアリティとか技術とかを通り越したパワーは、壮観の一言。私の目が多少、昔の作品に優しいというのはありますし、ゴジラの背後に何を見るか、でも少し変わってくるかとは思いますが。演出では、大戸島でゴジラの足跡から三葉虫を発見するシーンが秀逸。一発で視聴者に「おかしな事が起きている」と伝えるこういった演出は好きです。で、そこから、山から顔を出すゴジラ、に繋げていく流れもいい。
内包したテーマ性を、エンターテイメントとして娯楽映画にぶち込むとはこういう事だ、という点において、60年たっても一つの手本になるクオリティの作品。
今見ると、という部分も含めて粗い所もあるのですが、むしろそこを噛み砕いて自分の形で表現してみたい、という魅力に溢れており、数々の後継を生んだのも納得です。
……しかし、これで8年後にはキングコングと戦う事になるのだから、時代というものは恐ろしい。

*1:当時の政治状況のぐだぐださに対して。2012年の今でも拍手が起きそうですが。