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『手裏剣戦隊ニンニンジャー』感想・第46話&最終話

本当は第43話以降はざっくり片付けようと思っていたのですが、ここまで酷いと何がどうして酷いかきっちり書かなくてはいけないという無駄な信念に基づき、引くに引けない戦いに突撃しました! 「家族」テーマとか主張しなければ流せる場所は色々あったのですが、「家族」テーマを主張したお陰で全て地雷になるという阿鼻叫喚。N・I・N・N・I・N!
◆忍びの46「終わりの手裏剣、目覚める!」◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:下山健人)
前回ちょっと気にしたアカ旋風の扱いですが、少なく見積もっても20年はニンジャとしてのブランクがあると考えて良さそうなのに、忍タリティ(才能)を取り戻したらラスボスとごく普通に戦闘してしまいました。
せめてここで、研鑽を積んでいないから思うように力を振るえない描写でもあれば髪の毛の先程度にはマシだったのですが、本当に才能が全ての世界のようです。
一見いわゆる「ノリが良い方が勝つ」理論にも見えますが、あれは「ノリで何でもしていい」のではなく、「必要十分な下準備を整えていればノリで勝っていい」という理屈です。
エンタメ性による強行突破というのは、下ごしらえによって突破に説得力を持たせているから成立するのであって、準備無しに突破しようとしたら、それは単に物語をボロボロに崩してしまうだけです。
そして勿論、やっていい事と悪い事があります。
この局面でのアカ旋風の活躍により、今作は「学び」「修行」「努力」という要素も、紐でくくってまとめて燃えるゴミに出してしまいました。
全身複雑骨折のバラバラ死体にナイトダイナミックを浴びせただけでは飽き足らず、キングピラミッダーで踏み潰したような大惨事&大惨事。
ニンニンジャーは幻月に全員合体技を浴びせるも、倒す事が出来ない。
「甘いな。儂を誰と思っている。戦国最強・牙鬼幻月なるぞ」
第1話からずっとなのですが、このフレーズを聞く度に、本多忠勝徳川家康の家臣で、生涯、合戦において傷を負った事が無いという逸話を持つ戦国武将)を思い出して困ります。私が今ひとつ、幻月を世界の脅威として認識できない理由の一つなのですが、そこはかとなく兜のデザインもそれっぽいし(^^;
幻月の大技を食らって全員吹き飛び、究極奥義で立ち向かうアカ好天だが、不意に現れた久右衛門に背後から刺され、忍タリティと<終わりの手裏剣>を奪われてしまう。
「これは宿命なんだ。君がどれだけ抗おうと、444年前から定められていた宿命なんだ」
ここに来て幻月&新月がやたらと「宿命」を連呼して、戦いを伊賀崎一族と牙鬼家の血統の因縁のようにアピールしてくるのですが、そんな要素はほとんど描かれてこなかったので、困惑だけが募ります。
<終わりの手裏剣>を奪われた事で、金の粒子になって消滅していく好天――実は好天は、以前の幻月との戦いで死亡しており、<終わりの手裏剣>の力で人間の姿を保っていたのだった。
音楽もドラマチックなものに変えて盛り上げに来るのですが、ここに来ての退場劇による感動投与には、『機動刑事ジバン』を思い出しました(笑)
完全に、投与する薬を間違えた感じ。
「終わりの手裏剣は僕が貰った! つまり、僕がラストニンジャだ!」
そしてまた、設定が微妙に横に滑る久右衛門。第9話で、ラストニンジャとは<終わりの手裏剣>の守り人の称号、と言及されているのですが、それと、<終わりの手裏剣>を手に入れたからラストニンジャ、というのは同じようで違うと思います(^^;
まあこの、久右衛門のラストニンジャへのこだわりについては最終話で拾われるのですが、拾った結果、更なる地獄の蓋が開く事に。
久右衛門は最後の封印の手裏剣の力で究極久右衛門となり、その攻撃で全員吹っ飛び変身解除。牙鬼親子は余裕綽々で去って行き、一旦屋敷へ戻った一家は、好天の死に打ちひしがれる。
「爺ちゃん……もっと俺が、うまく戦えてれば……。ごめん、みんな……」
最近丸くなっていた天晴が、ここ数話で初期の超上から目線を急に取り戻しているのですが、天晴にとっての「やりたい事」って要するに「卵以外は全て脇役の世界」を作る事なのか。
ここで八雲が居間を後にし、珍しくキャラのスタンスの違いを表現するのかと思ったら……
凪「どこ行くの、やっくん」
雲「あの場所には……居たくないだけだ」
凪「冷たいな……おじいちゃんが消えて悲しくないの!?」
1クール目とかならともかく、最終話目前にこんなやり取りを聞かされるとは、さすがに目が点になりました。
『ニンニン』一家の言う所の「家族」の絆がどの程度のものなのか、よくわかります。
その後、前々回、正影の術を打ち破る際に天晴とか駄目人間、と主張した八雲と風花が「俺が見てきたのは他でもないタカ兄だ」「私だって、闇雲にお兄ちゃんの背中追ってきたから」と天晴さんはやっぱり最高っす! とフォローを入れ、登場人物が無闇に主人公を持ち上げる、というただただ気持ち悪い事に。
ここに来て、2クール目や3クール目の微修正がほぼ無かった事になって、人間関係が1クール目に戻っていて凄い。
そして序盤からずーっと疑問なのですが、どうして天晴は、今作における理想のリーダー像なのでしょう。
勿論、作品によって主義主張が色々あって良いとは思いますが、これは本当に理解できません。
天晴さんの基本理念、「自分=主役、仲間=引き立て役」なのですけど。
そして旋風が皆を集め、信楽焼の中から見つけた桐の箱を開くと、中身は空っぽ……と思ったらそこには、自分が消え去った時の事を想定した好天からのホログラムメッセージが仕込まれていた。
……私の持論に、
アニメなどにおいて、身近な場所にビデオメッセージを仕込んで死んでいる父親は基本クズ
というのがあるのですが、また一つ補強されてしまいました。
「儂が消えたぐらいでクヨクヨせず、イケイケドンドンじゃ! そして、やるべき事をやってこい!」
好天の激励を受け、目に光を取り戻す天晴達。
「悲しい時だからこそ、自分たちのやるべき事と、ちゃんと向き合わないといけないよね」
「いや! 俺たちは俺たちのやりたい事をやる」
<終わりの手裏剣>を取り戻し、牙鬼幻月を倒し、世界に平和を取り戻す……自分たちの“やりたい事”への決意を固めたニンニンジャーは再び立ち上がり、翌朝、牙鬼城を目指すが、その前に蛾眉雷蔵有明の方が立ちはだかる。
幻月が復活しても、有明の方が亡き萬月の事を引きずっているのはちょっと面白い要素だったのですが、ここでごく単純に、ニンジャへの恨みにシフト。……うん、まあ、期待はしていませんでしたが、ことごとごく何もかも広がりません。正影と有明の方に関しては完全に、キャスティングだけで満足してしまって何も厚みを与えないまま退場の時を迎えてしまった感じ。
メインキャラ6人さえまともに転がせないのに、敵の幹部まで肉付けできるわけがない、と言えばそれまでですが。
「のこのこと現れるとは無謀だな。弔い合戦か!」
「弔い合戦? そんなものは関係ない」
「私たちは私たちのやりたい事をやり切るだけです!」
第42話から強調して持ち込まれたこの「やりたい事をやる」は、“やるべき事”と“やりたい事”を対比して、“使命”から“自由意志”へというのを描く意図なのでしょうが、ニンニンジャー各人が“使命”と“自由意志”に向き合うエピソードというのがほぼ皆無だったので、言葉を重ねれば重ねるほど空虚になっていきます。
むしろ、やりたい事をやるという意味では、皆序盤の方が、それぞれ別の価値観(魔法使いになる・科学者になる・安定した人生を送りたい・平穏な生活を過ごしたい)を持っており、全体としては
〔やりたい事がある−(A)→今は使命を優先する−(B)→それがやりたい事に変わる〕
という流れのつもりなのでしょうが、肝心の(B)の部分が描かれていないので、話が成立していません。
根本的な所では今作、“使命”と“自由意志”という部分にはウェイト置いてない筈(そこは軽く流す作風)だったのですが、どうして急にそういう事になったのか。
そして「やりたい事をやる」といえば、4年前の作品(『海賊戦隊ゴーカイジャー』)の重要なフレーズであり、何故これをクライマックスで流用しているのか、激しく理解に苦しみます。メインターゲット層は4年も経てば一回転してはいるのでしょうが、これではセルフオマージュではなく、悪い意味のパロディにしかなっていません。
アカは牙鬼城へと向かい、青・桃・星は、蛾眉と有明の方と戦い、白・黄はシュリケンジンで巨大足軽と赤い狐ロボを担当。屋敷では箱が落ちたらビデオメッセージの続きが始まり、この戦闘に爺ちゃんから各人への言葉が重なるという趣向。
最高だったのは
「キンジ、おまえには苦労をかけさせた。心の弱かったおまえも、今や信頼のおける立派な弟子じゃ」
……いやキンジ、いつ、心強くなったの?
私の記憶だとつい最近も、「あっしも、隠し事が……」とかやらかしていた記憶があるのですが、まあ、好天の目は節穴だから仕方ない。
「そして、天晴。おまえには、多くは言わん。この世で、最も強いニンジャとなれ。良いか、牙鬼幻月を倒せ。それをもってラストニンジャレースからの卒業とする。後は、己の道を行くのじゃ」
先ほどまで“やりたい事をやる”とか言っていた筈なのですが、そんな天晴の行動は、爺ちゃんの「命令」通りという、このニンジャ無間地獄。
祖父と孫達の想いが重なっている、というのをやりたかったのはわかるのですが、上述したように、各人の“使命”と“自由意志”の話というのをやっていないので、各人が自分の意志でそこに立っているという感覚が非常に薄く、挙げ句、好天も最後まで「やるべき事をやれ」と上から押しつけているだけなので、誰も彼も好天の価値観から逃れられていませんし、何より好天が何も反省していません。
爺ちゃんのメッセージも各人の良い所を褒めるだけにしておけば良かったのに、みんなニンジャにまとめてしまうので、結局、祖父の尻ぬぐいを自分たちの意志だと思い込まされている孫の話になっているような。ニンジャヒーロー作品だからニンジャにまとめるのはかまわないのですが、だったら中途半端に“使命”と“自由意志”のテーゼなど持ち込まないでスッキリ進めれば良かったのではないか、という安定の『ニンニン』クオリティ。
とにかく、持ち込んだテーゼと劇中の出来事が至る所で噛み合っていないのに表面上だけ綺麗にまとめた風を装う為、ボロボロに崩れた骨組みが砂漠に散らばっていて虚無の向こう側が見えてきます。
青が蛾眉を倒し、桃&金は有明の方を倒すが、ここも凄く不思議な組み合わせ。霞が奥方を倒し、欧米コンビで蛾眉さんを倒すor八雲&霞で奥方を倒し、ポンチョが蛾眉さんを倒す、ならまあわかるのですが、霞と奥方の因縁は何となく拾ったものの、蛾眉さんとか何しに復活したのでしょうか。
そして、毛利さんが強硬に主張していたと思われる霞→八雲は、魔女っ娘回以降、一切の押しどころか二人の絡みすらほぼなく、渾身の無駄描写。内部で激しい派閥争いでもあって桃青派は粛正されシベリアに送られたのか。
赤は究極狐の元に辿り着き、ここで城ロケは良かったです。だが久右衛門は遂に<終わりの手裏剣>を発動し、大量の足軽と妖怪が一挙に復活、天晴達は強制的に変身解除されてしまう。
「<終わりの手裏剣>は世界を終わらせ、新しい世界を生み出す。われら牙鬼家の支配する世界が始まる。天下は恐怖によって統一され、古き世界は滅びるんだ!」
「そんな事させるかよ!」
「お前達、伊賀崎の力は無くなった。全て終わりだ」
「終わりなんかじゃない。俺も、他のみんなも、こんくらいで屈するわけないだろ! 熱いなこれ。燃えてきたぁぁぁぁぁ!」 
逆境にくじけない天晴達は、果たして勝利を掴む事が出来るのか、次回、更なる大惨事が待ち受ける、最終回。


◆忍びの最終章「忍ばず未来へワッショイ!」◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:下山健人)
最終話を見ていて胃が痛くなったのは初めてかもしれません……。
変則OPは、新規ナレーションに音と絵の合わせ方が格好良かったです。……うん、まあ、それぐらいかな、良かった所……。
天晴と久右衛門の戦闘はいつもの廃墟に移動し、好天との師弟関係について「奴だって僕を、自分の息子の踏み台程度にしか考えていなかったのさ」とか急に言い出す久右衛門に、天晴は反論。
「爺ちゃんは、きっと願っていたんだ。競い合って、互いに高め合って、支え合える、俺たちみたいな仲間。おまえと親父も、そういう風になれる事を願ってたんだよ!」
……まあラストニンジャの設定を考えたら、自分を殺せそうな弟子を探したか、殺す事を焚き付けられそうな弟子を探したと考える方が無難で、久右衛門の見立ての方が正しい気がします(笑)
最終話にして久右衛門が突然、好天−旋風への劣等感と僻みを吐き出すのですが、久右衛門が純粋に牙鬼家の宿命の為に活動しているなら口にする必要は無い言葉で、とすると、久右衛門には更生の目があったのに好天が駄目師匠なので導けなかったという事になるのですが、それでいいのか。
……いや、好天が駄目師匠というのは既にハッキリしているのですが、物語がそんな駄目師匠を超えていくという構造になっているならともかく、「超える」「超える」と口で言っているだけで最後まで駄目師匠の命令通りに動いているので、ヒーローが駄目な師匠を賛美している世界になっているのが問題なわけですが。
そしてそんなラストニンジャワッショイの世界観を守る為に、久右衛門を導けなかった好天ではなく、好天の気持ちがわからなかった久右衛門が悪い、というロジックを天晴が展開しているのですが、その久右衛門の動機付けは「父親の為」なので、コメントでタイキさんやwayさんが書かれているように、久右衛門がどうして悪なのかというと、生まれが悪かったからという事になってしまっていて、仮にも「家族」テーマを掲げる作品が、それでいいのか。
久右衛門に追い詰められる天晴だが、そこに次々と駆けつける仲間達。
「何人で来ようが力を失ったお前達が、僕に勝てると思っているのか!」
「勝つさ! 俺たちは6人だからな」
「俺たち6人が居れば、忍タリティは湧き上がってくるんだ!」
前回ラストで忍タリティが消滅したけどくじけない、という展開だったので、忍タリティは無くても、これまで磨き上げてきた力と技(努力の集積)で戦うんだ――それが忍タリティを生み出すんだ!――というような展開になるのかと思ったらそんな事は全くありませんでした。そもそも忍タリティが消滅した理由がよくわからないので(<終わりの手裏剣>が凄いから、なのでしょうが)、「湧き上がってくる!」とか言われても凄く困ります。あと、シュリケンジン動かせていたから、忍タリティ無くなった気がするの自体、たぶん気のせい。
「忍タリティ」はよくあるマジックワード事故を危惧していたら、全く定義付けがされないまま物語がクライマックスを迎え、“何か特殊な素質”として着地する事で一切キーワードとして外に広がらないという、マジックワード事故以前の惨劇。
忍タリティを取り戻した6人は最終回恒例の生身変身を行うのですが、スーツ+顔出しの状態から、バック転の映像を吹き替え合成する都合で、物凄く締まらない事に。まあ、心が真っ白な状態で見ているので映像にもノれないというのはありましたが、変身ポーズは最終回の事を考えて作った方が良いなぁ、と改めて思いました。
テンション最高潮のニンニンジャーは久右衛門を滅多切りにし、最後は合体ニンジャビームからの、連続斬りでフィニッシュ。
忍タリティがほぼ、=才能、であり、久右衛門が好天−旋風にコンプレックスを持ち旋風の忍タリティを奪った事も考えると、今作における「悪」とは、生まれにも才能にも恵まれなかった者であり、それを生まれと才能に恵まれたメンバー+1が叩き潰す、という物凄い構図です。
そして、大ダメージを負ってピクピクする久右衛門の姿に、天晴は変身を解いて歩み寄る。
あー………………
「おまえさ、爺ちゃんの事、憧れてるんじゃないのか?」
「僕が、奴に憧れているだと? 馬鹿か! 何を言い出す」
「おまえもラストニンジャになりたくて、爺ちゃんを超えたいと思っているなら、俺と同じじゃんか」
まさかのラストニンジャ無罪。
全身複雑骨折のバラバラ死体にナイトダイナミックを浴びせただけでは飽き足らず、キングピラミッダーで踏み潰した上にビィッグ・ボンバー!!で消し飛ばすという、大惨事&大惨事&大惨事。
もはや、大惨事という言葉では表現が足らないレベルで、カタストロフの底が抜けました。
今作の、悪い意味であやふやな倫理観が、この最終回で大噴火。
これまで牙鬼軍団を何の躊躇もなくぶった切ってきたニンニンジャーを考えたら「九衛門に情けをかける」時点で十分にアウトなのですが、情けをかけた理由が「九衛門も爺ちゃんに憧れているから」はもう、没収試合だと思います。
勿論、フィクションの倫理観というのはその作品世界ごとに存在して良いのですが、であるからこそ、最低限の基準とルールは作り手の側が守らなくてはなりません。
それすら描写に一貫性が無く、千歩譲って相手の事情を鑑みたとしても、「どんな悪人でもラストニンジャに憧れていたから許す」というのは、もはや、ギャグにもなりません。
また久右衛門が「人間を捨てた」発言をしていたという事は元・人間という事で、そうするとその父親の幻月は人間なのか? 根本的に牙鬼軍団はどういうカテゴリなのか? という問題も生じてしまっています。
前半にはキンジの「お命頂戴」があったので、その辺りのタガは外れているというイメージだったのかもしれませんが、キンジとはすぐになぁなぁのじゃれ合いになってしまいましたし、その他の要素で一切補強されていないので、ニンジャの世界の死生観は一般常識とは違う、というのは無理があります(なおこれは、ラストニンジャの先代殺しのルールが作品世界から浮く一因にもなっています)。
敢えて言うならば『世界忍者戦ジライヤ』(卑怯な忍者は殺っていい世界)とコラボしているので『ジライヤ』世界と地続きという抗弁は成り立ちますが、さすがにそこまで恥ずかしい主張は無いと思いたい。
フィクションにはフィクションなりの始末というのがあるわけで、今作はここで完全に、劇中描写に対する責任を放り捨ててしまったと思います。
この辺りから、胃が痛くなり始めました(笑)
「俺が頑張れたのは、爺ちゃんに憧れてたからだ。おまえもそうなんじゃないのか?」
「僕が……奴に……?」
「確かにおめえさんは、牙鬼家の宿命の為、好天様に弟子入りしやした。でも本当は……家族を取り戻したかったのではございやせんか?」
そして更に続く、胃の痛くなるやり取り。
久右衛門にとっての家族って、幻月その他の筈なのですが、そこ肯定的に扱うんだ(笑)
「あっしとおめえさんは、似たもの同士。孤独の道を歩んできたあっしらは、いつしか好天様に、伊賀崎家に、居場所を求めていたわけでございやしょう」
今作が終盤に描いてきた要素を組み立てると、生まれにも才能にも恵まれなかった者は、生まれと才能に恵まれた人たちの仲間に入れてもらおう、という事になるのですが、今作の結論、これか。
で、キンジが夏休みの終わりと共に、一切、父と兄の事に言及しなくなったのは、伊賀崎家に居場所を認められたので実の父兄の事はどうでも良くなったからという恐るべき事実。
……いや、重ねて書きますが、今作が「家族」テーマで無かったのなら、別に流していい場所は幾つもあるのです。ですが、今作は「家族」テーマを主張してしまったわけで、なら、「家族」に関わる要素は突っ込まれても仕方ないし、そこで描かれる「家族」像が今作のメッセージとして受け止められるのは覚悟の上ですよね、と。
キンジが失った家族の代わりを伊賀崎家で得る事自体は別に構わないのですが、それと引き替えに実の家族の記憶が消滅していると、それはまた、全然違う話になるわけで。
で、久右衛門が本当に伊賀崎家に居場所を求めていたなら、それをひねくれさせてしまった好天と旋風はどれだけクズなのでしょうか。第45話以降、旋風父さんの株までストップ安なのは、正直辛いです。
「僕は……奴に憧れていたのか……?」
天晴とキンジから言葉の機銃掃射を受け、何だかその気になってしまう久右衛門……心、弱いなぁ。
今作のこの、心が弱い=他人の言葉に惑わされやすい、という即物的な表現も、最終回まで貫かれたのは凄いと思います!
初見時、台詞取りの2回目に続いて、感想まとめている現在進行形で胃が痛くなってきたのですが、ここで、久右衛門が最後に好天から奪った封印の手裏剣が、緑色の変身手裏剣に姿を変える。
「爺ちゃんは、おまえを弟子に戻したかったんだな」
「そんな筈、あるわけがなぁい!!」
果たしてそれは、久右衛門の為の手裏剣だったのか……感情を露わにする久右衛門だが
「宿命から逃れる事など出来ぬ」
そこへ突如、幻月が出現。
「愚かなせがれよ。おまえとて我が野望の為の道具に過ぎん。それがおまえの、宿命だ」
幻月は久右衛門を吸収して巨大化。
「見よ! これが、これこそ我が真実なる姿」
長らくよくわからない存在だった幻月ですが、巨人族だったのか……。
「奥方の次は、久右衛門まで利用しやした!」
「酷すぎる!」
「家族を軽んじるなんて、許せません!」
いや霞さん、つい先ほど、その奥方を真っ二つにしましたよね?
身内を犠牲にする、というわかりやすい形で幻月の悪辣ぶりが強調され、良き師匠である好天と、悪い父親である幻月が対比構造になるという120%無理のある展開なのですが、牙鬼軍団に家族の情なんて見ていない筈のニンニンジャーが、幻月に対して倫理的批判をぶつけるので、ますます意味不明に。
とにかく、物語を成立させる為の最低限の基準が存在してしません。
ニンニンジャーは激熱を召喚して立ち向かうが、圧倒的な力を振るうジャイアント幻月。
「伊賀崎に生まれ、ニンジャとして我が一族に刃向かった宿命を、悔やむがいい!」
押し込まれる激熱だが、6人は限界を超えた力を振るう。
「悔やんだりするわけないです!」「例え違う家に生まれても、ニンジャになるんだから!」「僕らが今居るのは、誰の意志でもない!」「俺たち自身の意志で、ニンジャになったんだ!」「宿命なんて、関係ありやせん!」「久右衛門だって、俺たちと同じなんだ! 俺たちは――」
「「「「「「ニンジャだ!!」」」」」」
復活してからずっと「宿命」を連呼する幻月に対して、ヒーロー達はとっくに宿命を乗り越えてやりたい事をやっているだけ、という構図で悪の滑稽さを描きたいというのはわかるのですが、そもそも天晴以外の5人がここまでニンジャ好きになった過程がさっぱり描かれていませんし、そもそも6人の言うニンジャは忍タリティという名の宿命に紐付けられた才能に担保されているので、むしろ宿命を否定するヒーロー達の方が滑稽になりかねない勢い。
この叫びに巻き込まれた久右衛門は幻月の体を抜け出し、弱体化した幻月はフィーバーを食らって大爆死。この適当な死にっぷりも某機動刑事を思い出させます(笑)
「伊賀崎の、者達……悔しいが…………僕の、負けだ。お師匠……」
<終わりの手裏剣>を見つめた久右衛門は、好天の幻影に導かれ、消滅する。
いっけん、久右衛門が血統の宿命を乗り越えているように見えるのですが、単に「ラストニンジャワッショイ」という今作における正義の価値観に飲み込まれた(元からそうだった事に気付いた)だけなので、改心とか救済とかいうより、同一化。そしてその同一化が「善」であると描かれているのは、今作クライマックスで、正直気持ち悪い部分。
「幻月を倒しても、この世界を滅ぼしに、また妖怪が来るようですね」
幻月が消滅するも未だ闇のわだかまる街を見つめて霞が呟き、幻月の末期の台詞を含めていきなりの意味不明な設定なのですが、そこへ飛んでくる<終わりの手裏剣>。6人で一つのラストニンジャと認められたニンニンジャーは、世界を救う為に<終わりの手裏剣>を発動しようとする。その願いは――
「<終わりの手裏剣>が無い世界、だな」
そもそも<終わりの手裏剣>が無ければ、世界を滅ぼす事も出来ない筈、という考えに至る天晴。
「それは、<終わりの手裏剣>を所持してこそ初めて存在する、ラストニンジャ自体が消えるという事になります」
「そうだよ、ラストニンジャになる夢が無くなっちゃうんだよ?!」
いや君達、何言ってるの?
この期に及んで、世界の危機とラストニンジャという形式的名称を天秤にかける伊賀崎家の人たちの脳がヤバい。
「わかってるよ。でも、やらなきゃどうにもならないだろ」
「ラストニンジャの歴史を変え、爺さんとは違う道を行くと決めた以上、覚悟は出来ている」
体裁としては神の居ない世界の創造、といった展開なのですが、それをご近所感覚に落とし込んで面白くなっているとはとても思えず、物事の判断基準がラストニンジャで止まっている伊賀崎家の人たちの脳がひたすらヤバいです。
そして最後の最後まで、今作得意の設定のすり替えが炸裂し、ラストニンジャになると<終わりの手裏剣>を使って願いを叶える話と化した物語は、<終わりの手裏剣>の無い世界の誕生により、平和を取り戻すのであった――。
こうして6人は、ラストニンジャという価値観を刷新して乗り越えた……ように見えるのですが、直後に「ニューラストニンジャ」とか言い出すので、何も変わりません。みんな、「私のラストニンジャ」に辿り着いて良かったですね あっはっはっはっはっは…………。
そして天晴が手にした緑の手裏剣に向け
「生まれ変わっても、ニンジャになってこいよ」
と呟くという、トドメのモヂカラ大団円。
それはもう、呪いだと思うのですが。
赤、金、青、桃は再会を約してそれぞれ旅立ち、各自のその後がちらりと描かれるエピローグ。クレーンを使って凄く高い所から、山と海と街と空を一つの画に収めたラストカットは、中澤監督が意地を見せて良い絵でした。本編の内容とあまり関係ないですけど。
まあ別に、好天の価値観を6人が乗り越える物語でなくとも構わないのですが、それなら<終わりの手裏剣>のない世界、にする事もないよなーと。
最終クールに来てあらゆる膿が噴出し、盛大なカタストロフで終局を迎えた今作ですが、最終的に何が一番良くなかったかというと、「運命を乗り越えたり価値観を変革したわけではないのに、それを装っている」という事だと思います。
別に運命を乗り越えたり、価値観の変革が無い物語があっても一向に構わないのですが、今作は、実は何も変わっていないのに、世界の根幹システムを刷新したから変化しましたーという形だけ取っているというのが非常にタチが悪い。
わかりやすい所で言うと、風花・凪・キンジのエピローグは、完全に爺ちゃんのメッセージをなぞっており、ラストニンジャの敷いたレールに乗っているようにしか見えません。勿論、意図的に被せているのはわかるのですが、今作でそこを意図的に被せると、爺ちゃんを乗り越えるとか自分の道とか全て空虚になってしまうので、そこはむしろ意図的に被せてはいけなかった所だと思うのです。
キンジに至っては、妖怪ハンターのよの字も思い出さずに、ワールドワイドなニンジャの道を歩んでいるわけですが、妖怪が好きだった事すら忘れてしまったのでしょうか。キンジに関しては途中で設定を大幅変更せざるを得ない事件でもあったのだろうかと疑いたくなりますが、妖怪ハンターが何か商標でも引っかかったのか。
この「何かを変えたように描いているけど、実は中身が全く伴っていない」というの今作全体で頻発する問題点(数少ない一貫した部分)なのですが、そこを見せかけで誤魔化すというのはつまり、視聴者への不誠実だと思うのです。
同時期同テーマで、逆に視聴者への誠実さを貫き通して成功した作品(『GO!プリンセスプリキュア』)があっただけに、どうしても比較してしまうのは一つの不幸ではありますが、場当たり的な展開を繰り返した末の不誠実な作品というのが『ニンニンジャー』に対する、総評です。
出来が悪いなりに作品として何か貫く軸があればまだ良かったのですが、それさえ無かった作品。個人的には、これまで見た戦隊シリーズの中では、最低クラスの評価。
細かい所で言うと、ラスト2話、獅子王の出番が一切無し、というのも地味に酷かったところ。レギュラーではないのでスケジュールの問題があって、むしろそれで第41−42話でやたらに活躍したのかもしれませんが、一切言及も無ければ超絶も使われないという扱いの酷さで、精霊は家族でないからシカタナイ。後ポンチョも存在消えていましたが、何だったのかポンチョ。
この辺り、テーマ部分だけでなく、ロボット含めギミック部分も最終的に凄くおざなりだったのは、制作体制がどういう状況になっていたのか少々気になる所です(^^; 明らかに演出陣に、細かいフォロー入れようみたいな姿勢が映像から感じられませんでしたし。
ところでラスト2話、アクション監督に清家利一さんの名前がありましたが、次作から代替わりでしょうか。それで最後に、先代ラストニンジャ役で出演? 次作『動物戦隊ジュウオウジャー』で、どんな絶望の中からも夢が生まれる事を祈りたいです。
「この星を、なめるなよ!」は結構格好良かったので、期待したい。