不朽の名作、今頃になって読みました(読んだのは通常版全10巻)。
地球上の誰かがふと思った
――人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……
――人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるだろうか……
――生物の未来を守らねば…………
ある日、突然現れた謎の寄生生物。
それは人間の脳を奪い、首から上と同化する事で全身を操り、そして人間を喰う。
高校生、泉新一は、寄生生物の侵入を途中で阻止した事により、右腕だけを奪われる。そして、様々な形に変形し、己の意識と知性を持った寄生生物、名付けてミギーと、不思議な共生関係を送る事になるのだった……。
既に色々と語られている作品かとは思いますが、思い浮かぶままに感想など。綺麗にまとめる事よりも、とりあえず書く事を優先したので、読みづらいかもしれませんが、ご容赦。
なお、およそ15年前に完結の作品(88・89年増刊、90〜95年連載)という事で、本編内容に多数触れております。未読の方は、ご了承の上、ご注意下さい。
とりあえずマンガ的な話をすると、女子高生のスカートが長いのと、教師が生徒を叩くシーンが何度か出てくるのに、時代を感じてみる(笑) 今、学園物のマンガで、チョーク投げとかする教師、居るのだろうか。
あと、岩明さんの描く女性キャラの顔って何となく好きなんですが、この当時はまだ、そんなに可愛くない。
きちんと描けていない画や構図も目立つ中で、決めゴマの使い方、一瞬の切り取り、などは当時から秀逸。特に、寄生された人間の顔が変形する演出は素晴らしい。この点に関しては、完全に後発を殺したと思う。昔、少し見た事があるだけの筈なのに、ああこれは記憶にあるかも、というシーンが幾つかあったぐらいで、これは少年の頃に読んでいたら間違いなくトラウマになったに違いありません。
あと何故か、顎の人も覚えていました。
きちんと読むと、本編屈指のどシリアスな展開の中で、顎の人が出てくるというセンスは凄い。『ヒストリエ』とかでも時折、いまいち笑えない洒落が入る時がありますが、これも当時からだったのか。
さて既に傑作として名高い本作ですが、大きなテーマは
- 人間とは何か?
- “そういう風に生まれた事”は罪なのか?
- 異質な存在と共存する事は可能なのか?
という事かと思います。これに環境問題なども絡め“人間は存在するべきなのか?”というテーゼを含む(但しこの点に関しては後に本テーマでは無くなる)わけですが、10巻の作者付記において、
という一文がありますが、今やろうと思うとある程度ひねって始めないといけないテーマに、ストレートに切り込む事が出来た、というのは作品としては大きかったと思います。
寄生獣の開始・第一話を描いた頃、世間は現在*1ほどエコロジー流行りではなく、環境問題についてもさほど騒がれてはいなかった。つまり「愚かな人間どもよ」という人間が滅多やたらにはいなかったのだ。だから第一話の冒頭では人類の文明に対する警鐘という雰囲気で、すんなり始められた
勿論それは先行者の特権であるし、ストレートに切り込んだから楽していい作品が出来るかといえば、全くそういうわけでもないのですが。
導入といえば、増刊での集中連載掲載分にあたる第3話において
というミギーの台詞がありますが、これは先行作品としての『デビルマン』に対する、敬意と線引きであるのかな、と。
シンイチ……『悪魔』というのを本で調べたが……いちばんそれに近い生物は やはり人間だと思うぞ……
普遍的、であるが故に今日ではなかなかストレートに描きにくい部分もある、テーマに挑戦している今作ですが、最大の特徴は、
自己愛を否定しない
事であるのかな、と思います。
むしろ最終的には、そういったものを肯定した所で生き物の生を認める方向へ決着する。
“罪”とか“罰”とか“赦し”とかではなく、そこに“生”と“死”が存在する。
その上で、それはあくまで泉新一が辿り着いた所であり、他の回答、他の道へ進んだものも居るかもしれない、そんなニュアンスもある。例えば宇田さん&ジョー、という存在が描かれている事は、他にもそういった中間存在が居るかもしれないという風に読めるし、そこにはまた別の戦いと結論があったかもしれない。
この点において、寄生生物の種明かし、めいた事をしなかった事も(作者がマンガ的に考えていたのかどうかはわかりませんが)素晴らしい。
構成としては前半、母の死、そしてミギーによる再生を経て、新一がある種の超人へと変貌する展開が、精神的な変化を含めて迫力なのですが、その後、パラサイトハンター的な展開にならなかった所も、素晴らしい。これは、自分の命を守る事には躊躇しないが同種と積極的に敵対する気もない、というミギーのスタンスによる所が大きいのですが、このミギーとの“なぁなぁ”になりそうな所をスレスレで回避する共生関係のバランスが、作品通して絶妙。
そしてそこで踏ん張った事で、8巻の「ただいま」が効く。
これで、作品が生きた。
恐らく、作品全体としても、割と危うい所を突っ切った感というのはあって、一歩間違えるとバランスを失って台無しになる所を、微妙に曖昧な部分所を残した事など含め、奇跡的なバランスに収まった気はします。この場合は、収まったから名作になった、というべきなのでしょうが。
で、その根っこは、ちょうど作中における、新一とミギーの関係、なのだと思う。
そんなミギーがクライマックス、
「後藤」との戦いに敗れ、新一を逃がそうとしながら、これまで無いと言っていた“情”について独白する。或いは、それが“情”であるとミギーが認識していなかったものが、死を前にして、読者に伝えられる。
さようならシンイチ……
これで……お別れだ……
シンイチ……
いちばんはじめにきみに出会って……
きみの……脳を奪わなくてよかったよ……
おかげで友だちとして……いろいろな楽しい……思い出を……
単純に熱い展開でもあるのですが、更に10巻、最終決戦において手負いの「後藤」を見据え
との対比になっている辺り、実に巧い。
ヤツの体に充満する怒りの正体……それは脳を奪わなかったわたしには存在しない感情だ。
すなわち“この種を食い殺せ”
物語で言うと、広川さんの正体は、ビックリでした。
あそこでああ持ってくるとは。
一方で、広川さんの言い分は、ある意味では“悪*2の綺麗事”であって、思想的に美しいが故に嘘っぽさがあったりするのですが、実は後発作品はこの“綺麗事”に絡め取られて終わってしまっている場合があって、その点において、『寄生獣』を『寄生獣』たらしめて他と一線を画させているのは、この広川市長の存在であったのかもしれません。
広川は裁きを他者に仮託する事で信仰を守るのだけど、『寄生獣』という作品全体では、もう一歩先へと進んでみた気がする。
市役所掃討戦から新一vs「後藤」に至る9巻は並のコミックス2冊分ぐらいの物凄いボリューム感なのですが、その中で好きなシーンの一つが、掃討作戦のクライマックス、山岸二佐と「後藤」の会話。
ここで、人間に対する殺戮者であり、マンガ的なボスキャラであった「後藤」の、何らかの“誇り”めいたものが表現されている感があって、好きです。
「な……何者なんだ……きさま……きさまら……は」
「見たとおりさ……単なる野生生物だよ」
そしてそれが、ラストの、新一&ミギーvs「後藤」、に集約されていく。
あえて『寄生獣』にやり残した事があるとすれば、“神”という概念に触れなかった事かと思うのですが、まあ、触れればいいというものではなく、選択肢として触れなかった、と見るべきなのでしょう。
クライマックス、無心の祈りの対象として「神さま!」と新一が叫ぶ所があって、この世界における“神”はそういう位置づけなのであると思う。
その上で最後、再生をしようかという「後藤」を前に、新一が一度は取りそうになった「天にまかせる」という選択肢を放棄するわけですが……あー、なるほどそうか、ここで、新一は、「裁いていいのかどうかわからない」から「裁かない」という事で、自分が神の視点に立つ事を、否定するのか。
ゆえに、泣きながら殺す。
この作品において極めて重要な要素である“涙”を流しながら、寄生生物にとどめをさす。
これは、広川市長が裁きを他者に仮託する事で信仰を守っている事との、対比であるのかもしれない。
もう一つ最後に、ラスト、一部の寄生生物がその食性を変えていった事について触れるのですが、そこに至って「種を喰い殺せ」という“命令”の無視が描かれるわけで、これはつまり“知恵の実”の話なのか、と解釈すると月並みで、自分で書いていてあまり面白くないのですが、まあそういう解釈もあるかもね、というぐらいの事で。そういう余地を残している所も、今作の面白い部分であると思う。
後そういえば、主人公が種だけ残してラストに退場、という展開にならなかったのも良かった。この作品は絶妙に、それをやったら萎える、という展開を回避しきったような気がします。
ところで、『寄生獣』で描かれたテーマを、狭いサークルに落としこんでより内省的にすると、90年代的自分探しになる気がするわけですが、ちょうど95〜96年に『新世紀エヴァンゲリオン』があって、オタクカルチャーが一気に内側へ向かっていく事を考えると、このタイミングというのは何やら面白い。
90年代中盤以降、戦う事よりも戦う理由とコミュニケーションツール探しに躍起になる風潮が主流になるわけですが、そこに欠けているのは“生存(サバイバル)への意識”ではないかとかつて書いた事があるのですが、もう一つ、“食事”だったのかもしれない。思えば『エヴァンゲリオン』の主要人物の一人である葛城ミサトはやたらにビール(嗜好品)ばかり飲んでいた印象がありますが、90年代後半に不足していたのは、食事なのかな、と。
と考えると、そんな90年代の終わりに、やたら飯を食うアニメとして『∀ガンダム』が出てきたのは、時代に対する富野由悠季の皮膚感覚であったのかと、思わないでもない。
……とかまあ、『エヴァンゲリオン』の食事シーンの記憶とか確認とか無しに書いてますので(まあ、有るか無いかの問題ではないのですが)、基本、与太話だと思ってください(おぃ)
こういった、時代を持って文芸を語る、というスタンスは好きではないのですが、『寄生獣』という作品が綺麗に転回点に存在する、というのは、基本こじつけですが、ちょっと興味深い。
もう一つ時代性といえば調べてちょっとビックリしたのですが、『幽遊白書』(冨樫義博)の連載が1990〜1994年で、全く同時期に重なっています(改めて、このマンガが全19巻というのにも驚く)。
『幽遊白書』は最後、魔界の話を放り投げた後で、コミックス1巻分、人間と妖怪の領域が重なってパラダイムシフトしつつある世界での日常話が語られるのですが(個人的には凄く好きな所)、その中で、妖怪の悪戯だと思ったら人間の悪意だった、「人間が犯罪をする率に比べれば妖怪なんて」と嘯くエピソードがあって、この『寄生獣』ラストとのシンクロニティも実に面白い。
もちろん、例えば89年『ゴジラVSビオランテ』において白神博士が「本当の怪獣は人間」と言ったように、こういうテーゼは昔からあるもので、両作品のオリジナルというわけでは決してないのですが(同時に両作品のオリジナリティを害するものでもない)、マンガ史に名を残す名作二つが、時をほぼ同じくしてそのラストにそういった所へ着地していった、という事例は記憶しておきたい。
ミギーのひとまずの結論。
ある日道で……
道で出会って
知り合いになった生き物が
ふと見ると死んでいた
そんな時なんで悲しくなるんだろう
そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ
だかなそれこそが人間の 最大の取り柄なんだ
心にヒマがある生物 なんとすばらしい!!
これがシーンも相俟って、格好いい。
素晴らしく好きな場所です。
改めて今回、「『寄生獣』は読んでおけ!」と背中を押してくれた皆様、ありがとうございました。
書き残した事とか思いついたらまた付け加えるかもしれませんが、ひとまず読了の感想です。
最後に余談になりますが、1998年に発表された小説『屍鬼』(小野不由美)*3が、「“そういう風に生まれた事”は罪なのか?」「異質な存在と共存する事は可能なのか?」というテーマを取り扱った上で、更に「“神”の問題」についても真っ向から挑戦していて(とにかくボリュームと要素が膨大な作品なのですが)、当初あまりにも凄いので感想は回避予定だったのですが、これはもう、『寄生獣』と『屍鬼』、という話を書きたいかも、と思ってはいるのですが、言っているだけでわかりません(おぃ)
あまりにボリュームが多いので(文庫5冊、2000ページ超?)お薦めはしないのですが、『寄生獣』ファンで時間と根性のある方には、興味を持っていただければ、と思う作品。