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『寄生獣』感想・追補3:『寄生獣』と『屍鬼』

寄生獣』感想シリーズ、たぶん最終回。

屍鬼』は、1998年に刊行された小野不由美(代表作:<十二国記>シリーズ)の長編小説。ハードカバー上下巻、のち文庫全5巻で発売。
特に『寄生獣』とこの作品の間に明確な関係があるわけではないのですが、たまたま続けて読むタイミング(『屍鬼』→『寄生獣』)になった時に、作品構造こそまるで違うものの、共通するテーマや要素が幾つか見えたのが面白かったので、『寄生獣』に関する落ち穂拾いの意も含めて異形テーマの普遍的な部分についてもう少し考えてみようかというものです。
同時に、単独で読んだ時には「これはもう、凄すぎて感想が書けない」と思った『屍鬼』に対して、少しばかりのアプローチを試みよう、という意図でもあります。
本文はその性質上、両作品の内容にかなり踏み込んで触れますので、未読の方はご注意下さい。
特に『屍鬼』は、現在コミカライズ展開中、7月からはアニメが始まっていますので、検索などで辿り着いた方は、ご注意下さい。
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まずは、『屍鬼』の簡単なあらすじから。


人口1300人あまり、土葬などの古い因習を未だ残し、閉鎖的な気質の強い山村、外場村。ある夏、この村で立て続けに村人が不可解な死に見舞われる。同じ頃、村にある洋館に引っ越してきた一家。村の医師・尾崎の懸命な治療も虚しく、一人、また一人、と村人の死は続いていく。それは新種の疫病なのか、それとも……。
基本的な枠組みは、和洋折衷吸血鬼ホラー、とでもいうような作品。吸血鬼伝承と日本の民俗学的なものを組み合わせた上で、超常の要素を取り扱いながらも、人間サイドが“新種の疫病か?”というアプローチを取るなど、“閉鎖的環境で発生する連続不審死”に対するシミュレーション的要素を加えて、現代小説としての足場を確保しているのが、一つの特徴。その上で、田舎の小村における閉塞感や陰鬱さなどを取り込んで人間の持つエゴなどの暗黒面にまで踏み込み、この設定において思いつく限りの要素を全て詰め込んでみましたとでもいうような圧倒的なボリュームがあります。
ふさわしいと思う言葉は、「そこまでやるか」
凡百の作品と違うのは、そこまでやった上で破綻せず、昇るだけ昇って終わった所。難点は、内容のボリュームも凄いけど、ページのボリュームも凄いので、簡単に人に勧めにくい事。
しかし間違いなく傑作なので、あらすじで気になった方は、是非。……といっても、1巻のあらすじだけだと、本当にベタもベタ、な感じなわけですが、そこから3回ぐらい大回転して、凄い方へ凄い方へ飛んでいくので、圧巻です。
今なら極端な話、コミックで途中まで読んで、4巻と5巻だけ小説、でも、許される、かもしれない。
7月からアニメも始まっておりますし。
とにかく文庫版の最終5巻などは、本当に物凄いです。
なお本作は、スティーヴン・キングの『呪われた町』へのオマージュという事で、作者に明言されています。
さて、本作における“彼ら”はベースこそ西欧の吸血鬼伝承によるものの、「吸血鬼」という明記はされず、作中においては、土葬された死者が甦るという伝承になぞらえた「起き上がり」、後に「屍鬼」と称される事になります(以後、呼称はわかりやすく「屍鬼」に統一)。
その基本的なルーリングは、以下のようなもの。
・人の血液を食料とする。
・外傷に対する高い治癒力を持つ。
・招かれなければ入れない。
・日光に弱く、また、日中は完全な活動停止状態になる。
・十字架やお守りなどある種のタリスマンを恐れるが、決定的な打撃とはならない。
屍鬼に血を吸われて死亡した人間は、一定の確率で、屍鬼として甦生する。その確率は数人に一人、といった程度。
「招かなければ入れない」辺りは、どちらかというと読者をニヤリとさせる仕掛け、という部分だったりしますが、基本的には極めてオーソドックス。本家?に比べると、増殖ルールがいわば“運任せ”のようなものでありアバウトですが、作中説明によると、有る程度、血筋が関係しているようであり、これも後半に物語の端々に影響を及ぼします。基本的には、西洋吸血鬼伝承を引きつつ、本邦の土俗的なものと組み合わせた上で、作品内部においてある程度、物語性の連動の上で解釈もなされます。
伝説をベースに、吸血鬼のルールを物語と組み合わせて解釈する構成はミステリ的ともいえ、これは作者の嗜好にそういう部分がある影響かと思われます(作者のデビュー作『東けい異聞』は大まかなジャンルでいえばミステリー。のち、『黒祠の島』というミステリー作品も発表)。
村に建てられた場違いな洋館、引っ越してきた家族、次々と死んでゆく村人達、暗躍する屍鬼と原因を探ろうとする人間達……と最初の内は特筆するべきことも無いような展開をなぞる本作ですが、凄いのは、ここから。
……という事で、かなり踏み込んだネタバレをしますので、ここまでで『屍鬼』に興味を持たれた方は、小説かコミックかアニメを是非どうぞ。





ネタばれ、行きますよ?
屍鬼』が凄くなるのは、屍鬼達の、もう一つ、極めて重要なルーリングが判明してから。
屍鬼に血を吸われたのち、屍鬼として甦生したものたちは、人間であった時そのままの感情と記憶と人格を持ちます。
何もかもを、覚えている。
覚えているけど、別の存在になっている。
別の存在になっているけど、一足飛びに、都合良く化け物になってはいない。
折角なので『寄生獣』に例えると、寄生生物に脳は奪われているけれど、かつての記憶や、人間としての感情は全て残っている、そんな状態。
それでも、命令が聞こえてくる。
“この種を食い殺せ”
寄生獣』冒頭に出てくるお父さんが、記憶や感情を残したまま、家族を食らっている、とでも想像してみてください。
さあ凄い。
とんでもない。
まあ寄生生物の場合は脳ごと入れ替わるので、そういう事にはならないわけですが、例え話です。
そんな、感情も記憶も人格も残しながら、屍鬼として甦生したものたちが、人間を襲わずにいられないのは、どうしようもなく飢えるから。
家族、友人、知人、数日前まで同じ側にいた人間を襲う事に対する躊躇は当然ありながら、しかし、飢えて飢えて飢えて飢えて飢えて仕方がない。
故に襲う。
また、屍鬼として甦ってしまった者達、には、いびつな形の希望が存在します。自分は死んだ、しかし屍鬼として生き返った、そんな自分が血を吸って殺す事により、家族もまた屍鬼として甦生するかもしれない。そして屍鬼になってしまった母親が、屍鬼として再び一緒に暮らせる可能性に賭けて、自らの家族を襲う――。
一度死んで生き返り、確かに別の存在になりながら、しかし人間としての記憶や倫理は染みつき残っている。
この屍鬼の特性と、甦生のルールにより、『屍鬼』は単なる吸血鬼ホラーから、「人間とは何か?」という物語へと、突入していきます。
屍鬼である自分を受け入れ、むしろ優越種として人間を狩るもの。
屍鬼となったものの、人を襲う事に対する罪悪感を捨てられず、それでも飢えて襲わざるをえないもの。
屍鬼の社会に、自分の家族を取り戻そうとするもの。
後半、ひとりの屍鬼がこんな事を語ります。

「ここには大勢の仲間がいて、みんなそれぞれに生きてるんです。感情があって、いろんなことを考えて生きている。人を殺すのに慣れちゃった奴もいるけど、そうでない奴もいるんです」
一方で、古参の屍鬼はこんな事を語ります。

「最初はね、嫌がるんですよ、みんな。人を意図的に襲うなんてことは、誰にとっても怖いことなんでしょう。純粋に罪を犯すことを恐れる者もいるし、罰を恐れる者もいる。重大事すぎて背負いきれないんでしょうね。 けれども人間の心とはよくしたもので――我々を人間と呼んで良ければ、の話ですけど――慣れてしまうんです。罰を恐れていた者は慣れるのが早い。罰されることがない間は、それはしても良いことなんですよ。すぐに罰なんか下されないことを確認して、意に介さなくなる」
「人間とは何か?」、そして、「人間でなくなるとは何か?」
屍鬼』が優れているのは、異質なものを合わせ鏡として前者を問いかける作品は多くても、後者の方に強く踏み込んでいる部分。屍鬼と人間を合わせ鏡とすると同時に、前者と後者を合わせ鏡にする事で、二つの問いかけのより深い所を抉っている。
寄生獣』が、人間でないもの(寄生生物)が人間を知ろうとする事により「人間とは何か」を問いかける構造であったとすれば、『屍鬼』は、人間でなくなったものから「人間と人間でないものの差」――「人」はどこから「人でなし(すなわち、鬼)」となるのか――を描く事で、「人間とは何か」をあぶり出そうとする構造とでもいいましょうか。
そういう風に考えると、『寄生獣』終盤のキーパーソンの一人である連続殺人犯・浦上が、自分が「人間」である事にこだわっていたのは、面白い部分かもしれない。
「社会へ帰属できない人間」は、「寄生生物以上のバケモン」たりえる、という話であり、主人公の合わせ鏡という部分もあったのでしょうが。
……ああそうか、今やっとわかりましたが、最後でミギーは自分が眠る事で(それはそれなりの理由があったとはいえ)、新一に「社会への帰還」を促すのか。
「人間とは何か?」という話をしようとすると、「個と社会」というテーマが出てくるわけですが、『寄生獣』と『屍鬼』の共通点の一つとして、“異質なものが「社会」を形成しようとした時に、人間の「社会」とぶつかりあって破綻する”という部分があります。
現実社会における、マイノリティとマジョリティに対する隠喩でもあるのでしょうが、社会vs社会、になった時に“人間”が如何に強力な生き物か、という部分は物語上の勝利における構造上の必要性となっているとはいえ、この「社会における人間」というのも、永続的なテーマの一つなのでしょう。
屍鬼』においては、主要人物である、医師・尾崎と、住職・静信は、村の中で“代々続く”という家を背負った存在であり、閉鎖的な村社会において、社会への帰属を積極的に要求されています。この二人を筆頭に、登場人物たちには大なり小なり社会(村)への愛憎があり、序盤から織り込まれたそれが、終盤に、社会の問題、として噴出する構成もお見事。
小説作品ということもあり、『屍鬼』の伏線は入念かつ巧妙なのですが、人間の問題と社会の問題と人間以外の問題が、同軸で語られていくのは圧巻。
そして『屍鬼』は更にそこから、社会のルールと神の問題について踏み込む。

「……どうして、わたしたちには神様がいないの? 悪魔でも魔物でもいいわ。わたしに奇跡を施してくれるなら、それがわたしの神様だわ。なのにそれさえ持てないの」

「君は、神様に見捨てられた感じが分かる、と言った。そうとも、君たちは、死者が甦るはずもないという摂理を裏切った瞬間に、神に見放されたんだ。君は狩人になった。人を狩らねば生きていけない。人を狩るということは、人を殺すということで、それは絶対的な悪だ。――そう定めたのは誰だ?」
「それは君を見捨てた神の論理だ」
さて物語は、一つの村を乗っ取り屍鬼のコミューンを作ろうとするもの、屍鬼の存在に気付きそれに対抗しようとするもの、屍鬼の存在を認めながらその存在を滅する事に頷けないもの、と登場人物達の思惑と行動が絡み合い、どんな手段を使ってでも屍鬼を滅ぼそうとする村の医者・尾崎と、屍鬼という存在を否定することができない村の住職・静信、の旧友二人の訣別を経て、クライマックスへと向かいます。
クライマックスでは、屍鬼達の総領である沙子の来歴と内面が語られる事によりたっぷりと感情移入をさせ、もはや静信とのラブロマンス状態のところに、尾崎の先導により人間達の反撃が始まり、屍鬼サイドと人間サイドの動きが交錯しながら語られる中で、人が人の姿をしたものを狩る中で拡大していく集団心理の中の狂気、がたっぷりと描かれます。
これでもか、これでもか、これでもか。
作者は手をゆるめない。
かつての知人、友人、時に家族の姿をしながら、既に人ではないもの。
人ではないが、人の姿をしたもの。
屍鬼を滅ぼす為には、血管系の完全な破壊――例えば心臓に杭などを打ち付ける――しかない。
人の姿をしたものの胸に、杭を打ち付けて滅ぼす人間達。
積み重ねられる屍体。
ぬぐいきれぬ罪悪感。
これしかないのか?
耐えられなくなる者、逆に、血に酔う者。
拡大する狂騒。
果たして、誰が、人で、誰が、人でない、のか――?
この、クライマックスにおける人間の反撃の中で人間の内面の狂気があぶり出される、という構造は――古典的なテーゼではありましょうが――『寄生獣』における市役所殲滅作戦を彷彿とさせる所でもあります。
寄生獣』においては、広川が「人間こそ地球の寄生獣だ」と弾劾し、後藤が自らを「単なる野生生物」と語った狂宴。
屍鬼』においては、人間と屍鬼がそれぞれの罪と罰に向き合いながら、物語は収束していきます。

「殺人は神の範疇の罪だ。君は甦ったときに神の掌から零れ落ちた。罪と咎められ、弾劾される資格さえ失ってしまったんだ。――それが異端になるということなんだよ」
「それって、もっと酷いわ……室井さん」
うん、と静信は頷いた。
「君が甦ったこと自体が、とても酷いことなんだよ」
ここまで色々あった上でなので、この部分だけ引用してもわかりにくいかとは思いますが、それでも引用したい。この一節に辿り着いたのが、『屍鬼』の、物凄いところ。
ひとでなしはどこに寄る辺を求めればいいのか?
ひとでなしが人と同じ寄る辺を求めた時、それは必然として破綻し、ひとでなしは裁かれる。
人としての赦しは与えられない。

「それでも、ぼくたちは死なないでいるなら、生きていくしかないんだ」
圧倒的。
「そこまでやるか」、そして、「やりつくした」、そんな傑作。
ところで、人間が人間でなくなる話、というと、個人的に真っ先に思い浮かぶのが、ジャミラ
ウルトラマン』第23話「故郷は地球」に登場した怪獣で、元は、地球人の宇宙飛行士。事故により不時着した水のない惑星で救助を待つ内に、体が変質。母国が事故を隠蔽する為に自分を見捨てた事を恨み、修理した宇宙船で地球へ帰還し、国際会議場を襲撃。最終的には、変貌した元地球人としてではなく、“怪獣”として葬り去られた、悲劇の怪獣。
名作として名高い、本シリーズ屈指の重いエピソードですが、「人間とは何か?」「正義とは何か?」という問題に関する、個人的な初体験の一つかもしれません。後に「正義とは何か?」という問題に関して更に先鋭化した『ウルトラセブン』では、また重量級のエピソードが色々あるのですが、ここでは割愛。
そういえば、「ひとでなし」は「人でなし」と書いて、すなわち「鬼」である、という概念について最初に読んだのは何だったかなぁ……荒俣宏の小説っぽい記憶はあるのですが。
この「人」と「人でなし」の概念は、けっこう重要で、『屍鬼』においても背後の低い所を常に流れています。
今、すっかり忘れていたのを急に思い出したのですが、『幽遊白書』(冨樫義博)にはそういえば、戸愚呂チームのオーナー・左京、という、それこそ「人でなし」になりたい人が居ました。『幽遊白書』は、人間に近い妖怪が居て、妖怪を利用して闇のビジネスをしている人間が居て、という世界観ではありましたが、後の展開なども考えると、(当時はよくわかってませんでしたが)「人」と「人でなし」の概念を含んで描かれていたキャラクターだったのでしょう。
もっとも、冨樫義博の作品世界は、一貫して、「人でなし」に対するシンパシーがあるわけですが、この辺りもちゃんと読み込むと面白いのかもしれない。
最後になりましたが、『寄生獣』と『屍鬼』は、これまで触れた以外にも、物語構造において、面白い共通点を持っています。

  • “実は普通の人間だった”協力者が居る
  • 指導射的立場の存在が、「自分たちは弱い存在だ」、と評する

というもの。
両作品において協力者はともに社会との架け橋とでもいうべき存在であり、しかし、異端の側が「社会」の構築に加わろうとした時、破綻の入り口は始まっている。
屍鬼の総領・沙子は屍鬼の強みを「人間が、屍鬼など存在しない、と思っている事」と云いますが、実際に、村人が屍鬼の存在を肯定した時に反撃と破綻が始まります。それは「社会」からの拒否であり、異端のルールで社会を支配しようとした時、既にそのルール自体が許されない、という矛盾によるものなのでしょう。
そう考えると、『寄生獣』の最後で、後藤は「社会」から再び別離し、孤高の存在としての己を選択する。一方で新一は、「個」として後藤に立ち向かおうとしながら、再び「社会」の中で、立ち上がる。という対比になっていたのかな、とも思います。
どちらが「善」とか「悪」とかではなく、存在の有りようとして。
……というわけで、なんか延々だらだらと書いてきましたが、書ききったような、まだ書き残した事があるような、まあとりあえず、自分の中で「宿題」設定していて気にかかっていた案件が片付いてすっきりしたので良し、という事にしておきたい。
疑問・質問・ツッコミなどありましたら、よろしくどうぞ。