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突然、シミュレーションRPGの話を始める・2

第1章:『ファイアーエムブレム』誕生
とりあえずサブタイトルをつけて、気分的に盛り上がってみます筆者が。
問題は、サブタイトル通りに話が進むか、ですが(笑)
さてまあそんなわけで、1990年4月20日ファイアーエムブレム暗黒竜と光の剣〜』、発売。
この年のビッグタイトルとしては、2月に『ドラゴンクエスト4』、そしてFEの一週間後には、『ファイナルファンタジー3』が発売。また、改めてちょっと驚いたのですが、この年の暮れ(11月21日)にはなんと、“史上最強のゲーム機”スーパーファミコンが発売されています。
ファミコンスーファミの共存期間がある程度長かったとはいえ、これはビックリ。
なおくしくも、ドラクエ・FFの両シリーズとも、4と3がファミコン最後のタイトルとなります。そういった意味では転換期であり、なおかつ爛熟期でもあったのが、この1990年。
ゲームの多様化――を通り越して、少々、キワモノ、が目立ちだした時期といえるでしょう。それも、ある程度出来のいいキワモノ。例えば異論はあるでしょうが、『ドラゴンクエスト4〜導かれし者達〜』なんかはある種のキワモノですからね、あれ。話逸れますが、初期ゲーム史を概括するにあたって『ドラクエ』はやはり単純な指標になりえると思うわけですが、1988年発売の『ドラゴンクエスト3』が一つの純然たる完成度の頂点であり、それが4になると捻りに入っているわけで。*1
丁度これが、ファミコン史における最盛期→爛熟期、と重なるのは多分、偶然ではありません。
ちなみに我らが『忍者龍剣伝』は1988年。同『2』が 1990年。
なお、1989年には『MOTHER』が発売しております。
作り手・受け手がともに、成熟しつつあり、懐が広くなっていた時期ではあるのだろうな、と。まあこの後、ゲームハードのスペックアップによる混迷期というものがまた生じてくるのではありますが。そういった面から見ると、PCエンジンはどうしてもちょっと早すぎたというか、“ゲーセン的なものを家庭に持ち込む為のゲーム機”以上になりえなかったのはなんとなく納得。
……話、大幅に逸れました。
で、そのFC爛熟期に出現した新しいゲーム、それこそが『ファイアーエムブレム暗黒竜と光の剣〜』でありました。このゲームの概念的新しさというのは要するに、一種際どさに繋がると思うわけなのです。
物語は、こんな感じ。


黒竜メディウスの復活により、戦乱の渦に飲み込まれたアカネイア大陸。国を滅ぼされたアリティアの王子マルスは、辺境の島国タリスへと落ち延びる。そして2年後――、海賊がタリスを襲撃した事をきっかけに、成長したマルスは生き残った部下達を引き連れ、打倒メディウスを目指して立ち上がる。
ファンタジー的世界観を背景にしたシミュレーションゲーム、という時点で、この頃のコンシュマーでは珍しかったのかな? パソコンとかだと、召喚したモンスターで戦う有名なシリーズ(題名失念)とかこの時点であったのかしら、と思いますが。
ゲームの基本は、マップクリア型のシミュレーション。
とはいっても、攻め合うのではなく、基本的にこちらが攻め手。お互いの拠点を奪おうとするのではなく、相手の拠点を攻め落とすのが目的。多分この時点で、新しい。
そして『ファイアーエムブレム』が他のシミュレーションゲームと一線を画し、『ファイアーエムブレム』をしてシミュレーションRPGとなしえた主な特徴は、

  • ユニットは人間である
  • ユニットには顔と名前がある
  • ユニットは会話する
  • ユニットは経験によって成長する
  • 死んだユニットは(特殊な例外を除いて)復活しない

という点になるかと思います。
これまで、工場で生産した戦車や飛行機や徴兵した歩兵などで戦っていたゲームとは違い、一つのユニットが一人のキャラクター。顔と名前が存在し、あまつさえ会話もする。この「会話をする」というのは割と重要でして、要するに“量産型ではない”という事の表現であったりします。容量の問題で顔が同じ場合もあるけど、決して量産型ではないです、と。そして経験によって成長する事で育てれば強くなるし育てなければ弱いまま。成長の仕方にも個性あり。まあこの点はゲーム的な楽しみという要素の方が強いですし、実はここまでは、ユニットの個性化でしか無いのですよね。
極端な話、ユニットが戦車のままでも出来ない事はない。一つ一つの戦車に細かい性能差をつければいいわけですから(まあだから「会話」てファクターはもの凄い重要なんですが)。
そこで「死んだユニットは復活しない」という点がやはり最大の特徴になってくる。
で、これは実は従来のシミュレーションの言語に合わせて訳すと、こうなります。
「再生産できない」
(&「自由な補充ができない」
名前がついている事よりも何よりも、実はこの、再生産できない、という事こそが最大の特徴。
これによりその顔と名前が、その世界で唯一無二のものとなる。
「ユニット」が「キャラクター」たりえる最大の要点となったといって良いでしょう。
『FE』というゲームの成功は、ユニット→キャラクターになった時にこそ起こるものであり、これは作り手だけが思い込んでいればいい、というわけではありません。
ユーザーがそれを認めてこそ、初めて成立する。
それに成功した事により、『ファイアーエムブレム』はエポックメイキングたりえたわけです。
例えば、後発のゲームがここまでやらなくともユーザーにキャラクター性を認識してもらえるのはそういう“受け入れ方”が既に発生しているからであり、故にFEはエポックメイキングなわけです。
ちなみにもう一つ大きな点があって、FEはこのシステムを取り入れた事により、ゲーム的な問題から従来のRPGが打破しえなかったゲーム性とドラマ性のすりあわせに新たな一面を切り開いています。
要するに、敵も味方も村人Aも関係なく、容赦なく死ぬという世界観は、神あるいは不定の力が勇者を救済する、という余地がない。
勿論、一般的なRPGにおいてそれをやる必要性は無いわけなのですが。
もう一つ付け加えると、この蘇生の余地の無いシビアな世界観というのが実は、FEを「タクティカルなRPG」ではなく、シミュレーションRPGとしている一つの要素だったりもします。
ある点では、この単語を生み出さざるを得なかった鬼子、という言い方は出来ると思うのですよー。
無論、発想としてはたぶん逆なんですけど、結果的に出来上がったものは実は、“どちらの領域にも属せないゲーム”だったのかもしれない(笑)
……ん、何故かいつの間にかFE異質論になっているゾ。まあでも、話横道に逸れるので詳しくしませんが、例えば『ゼルダの伝説』なんかは従来のゲームに対して非常に異質な所から出てきた名作であって、そこら辺りを考え合わせると、この論法もあながち外れてはいないかもしれないなどと、思ってみる。
えー、だいぶ長くなってきたので、以下次回。
……まだ、『暗黒竜と光の剣』の話も終わってないよ。

*1:で、その後、5・6で試行錯誤というか迷走期に入る