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『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー』感想(ややネタバレ)

◆『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』◆
(監督:荒川史絵 脚本:會川昇


 シャドーラインとの戦いが終わってから10年……すっかり大人になったライト達の前に突然、甦ったシャドーラインを率いて新たな敵が現れる。変身して戦おうとする5人だが、イマジネーションを失っていた為にトッキュウジャーになる事が出来ず、慌てて逃げている内に不思議な穴に落ちてしまい……辿り着いたのは、小学校の卒業式の前日?!
 そこで子供時代の自分たちを目にした5人は、その日が、とても大切な日だった事を少しずつ思い出していく。そして子供時代の5人は、ある約束の為に明を探し出そうとしていた……。
『トッキュウジャー』TV本編は大好きなものの、もともと続編や後日番外編の類が余り好きでは無い事と、CMなどでの内容紹介からどうも琴線に触れる要素が薄そうで手を出していなかったのですが、思い切って見てみたところ……うーん……事前に警戒していた個人的な地雷が、概ね見事に地雷でした(^^;
危惧していた地雷は主に3つありまして……
1・子供トッキュウジャーに焦点が当たってもあまり嬉しくない
これはもう純然たる好みではありますが、構成上、大人と子供が半々ぐらいなので、どちらも楽しめないと根本的な所で割と厳しいです。そしてやはり、小学生を変身させて切った張ったさせるのは、見ていてあまり楽しめず。
割とあっけらかんと変身させてしまうのですが、精神的には本編において「子供の自分を乗り越えるという痛みを得て真のヒーローになったライト達」の延長線上にあるとはいえ、子供に戻った5人があっさり変身してしまうと、小学生の体にヒーローとしての覚悟を宿している子供ライト達がむしろ精神的に歪な構造になってしまい、その歪さから解放されるのがあの最終回だと受け取っていた身としては、どうも引っかかってしまいます。
子供と大人のトッキュウジャーを競演させるというコンセプトありきでやむを得ない部分ではあったのでしょうが、元来、もう変身しなくて良くなった筈の5人を、何の躊躇もなく変身させてしまうというのは、もう少しデリケートに描いてほしかった部分。そこが無い為に、“戦い”にともなう“痛み”という要素が敵味方ともに非常に薄く感じてしまいました。
2・脚本が會川昇
誤解の無いように書いておくと會川昇に関してはここ数年でむしろ見直しているのですが、どうもTV本編の會川脚本回(3本)が作品とあまり相性が良くない印象だったので、どうしてVシネマの担当になったのかなぁと(^^; 『トッキュウジャー』と根っこの所で波長が合っていなくて、テクニックで表向き綺麗にまとめている感じがあったのですが、今回もそんな感じ。
逆に言うと、小林脚本かせめて大和屋脚本だったら迷わず見ていたし、この二人のどちらかだったら、何が出てきても『トッキュウジャー』として、良し悪しとは別にすっぱり納得できたのですが(^^;
3・トッキュウ7号(車掌)が何も嬉しくない
これはもう本当に、何も嬉しくない(笑)
あと、新戦士7号(紫)登場は、レインボーという要素が本編で使い切れなかったから、というのは視聴者と作り手の相互理解としてはわかるのですが、劇中で誰もツッコまない為に、完全に内輪ウケになってしまっています。登場時点で内輪ウケ、といえばそれまでですが、本当にただのアドバルーンにしかなっていなくて(^^;
……「帰ってきた」系戦隊Vシネマシリーズは初見なので、他のシリーズ作品の方向性はわかりませんが、子供トッキュウジャー、レインボーの7人目、車掌の補完、とサービス要素優先のお祭りボーナストラックといった造り。二つのトッキュウジャーを競演させる為の仕掛けはかなり強引ですし、とにかく求められた要件を詰め込んでラッピングしたという感じで、詰め込まれたサービス要素が嬉しければ楽しめるし、そうでなければ、酷くもないけど見所もあまりない、といったぐらいの出来でしょうか。
個人的には、小学生トッキュウジャーを戦わせるというコンセプト部分に大きな問題があったかな、と。
その上で一番引っかかったのは、イマジネーションを失って(子供ライト達から見て)格好悪い大人になってしまったライト達が、イマジネーションを取り戻して格好良くなる瞬間に最大の焦点が合っていない事。
あくまで個人的な解釈ではありますが、本編におけるヒーロー観が、「子供時代の自分に胸を張れる大人になる事」であった事を思えば、大人になっていく過程で、いつの間にか色々な事を仕方ないで済ませてしまっていたけど、そうじゃない、自分たちは、こいつらが格好いいと思える大人(=ヒーロー)でなくてはいけないんだ、という気持ちを取り戻す瞬間こそクライマックスにふさわしかったのではと思うのですが、そういった描写が全く無いわけではないものの、最大のクライマックスにならなかったのは残念。
合わせて、ライト達が取り戻すイマジネーション=「子供時代の想像力」、となってしまい、いつまでだってそれを持っていて良いんだ、というのはそれはそれで悪くないのですが、どちらかというと會川昇のヒーロー観が前に出すぎて、大人になる事でヒーローになっていく本編のテーゼとはズレを感じてしまいました(まあ監督はずっと本編に助監督で入っていた筈なのですけど)。
ライト達が再びトッキュウジャーになる際の原動力は、子供とは別のイマジネーションがふさわしかったような。
この辺り、撮影タイミング的に、脚本執筆時点でどこまで最終回の内容を踏まえる事が出来たのか、摺り合わせが難しい部分もあったのかもですが。
また、クライマックスバトルの工夫は良かったのですが、戦闘シーンをかなり豊富に盛り込む都合で、物語の流れや本編のテーマ部分を犠牲にしている所も見受けられ、総じて、サービスとテーマが融合せず、サービスがテーマを駆逐してしまった感じ。最初からハードルを低めに設定していたので落胆は無かったのですが、もう少し、各種要素が綺麗に繋がってほしかったなぁという、そんな作品でした。
ちなみに個人の妄想としては、“10年後のライト達”を描くなら、「ライト以外の4人はトッキュウジャーとしての戦い自体を忘れている(子供時代の空想だったと思っている)」ぐらいまでやって欲しかったのですが、戦いは覚えているけど変身は出来ないけどその原因はわかっている、というのは諸般の都合で中途半端な導入になってしまったなぁとも思う所。