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名も無き死者達の歌

以下、文中の「特撮」=「特撮ヒーローもの」の略としてお読み下さい。
半端な時間があったので、公式配信の『仮面ライダーV3』(73')とかちょっと見ていたら、冒頭から名も無き一般人が溶け死んでいました
でふと思いついた話なのですが、『仮面ライダー』シリーズは根元に“怪奇”を置いているというのはありますし、勿論それぞれの作品によって違いますが、大雑把に言って70年代特撮は名も無き一般人がざくざく殺される時代であったという気はします。これが80年代に入ると、名も無き一般人をざくざく殺しにくい時代に変化していく。
この、悪の組織の残酷さを表し恐怖感を煽る為の殺人という、非常にてっとりばやい手段が使われなくなった(使いにくくなった? この辺り、社会的背景や大人の事情もありそうな気がするので、不明)事は、当然、シナリオ面に大きな影響を与えます
80年代以後の悪の組織はこの変化により、〔捕まえた人間を生かしておく・直接的な殺戮作戦をあまり行わなくなる〕という方向にシフトしていきます(勿論、よく考えると人死んでいるよなぁこれ、というのは残りますが直接的な描写は減っていく)。
結果的に、たくさん人間を捕らえた筈が都合により画面上には10人も居ない、とか、無闇に捕まえた一般人を生かしておく、とか、多少の無理は押しても名も無き一般人達が最後に助かる、とか、悪の組織の作戦がやたらと遠回しなものになる、など、シナリオ・演出の両面においてリアリティを阻害する状況が出る事になっていきます。
また、70年代は最終的な作戦がヒーローに妨害されてもその過程での被害を描く事が可能だったので、制作側が意識しているかはさておき、悪の組織サイドも負けたけど一応の被害は出せた、という絵が成り立ったのは、作劇的にはそうとう大きい。この点は、70年代の無意識な恩恵として、80年代以降に脚本家を苦しめる事となります。
誤解しないでいただきたいのは、では悪を鮮烈に描きやすかった70年代の方がより劇中にリアリティが存在していたかというと、決してそうとは限らない、という事。
作品固有のリアリティとはあくまで劇中のルールの用い方によります。
こうして80年代特撮は戦隊シリーズを中心に、劇中のリアリティの方向が、悪が“負ける理由”“作戦が遠回しな理由”という部分の構築に徐々に向けられていき、そこにドラマ性が付加されていく、という一面を持ちます。90年代になるとその流れを踏まえて、より整合性に気を遣ったテクニカルな脚本の率が上がってくる。
例えば、改造実験帝国メス(『超新星フラッシュマン』86')なんかは、70年代だったらもっとえぐい作戦や実験をどんどん行う組織で「へたれ係長軍団」「ヒロインはネフェルさん」「ケフレン×カウラーが熱い」とか言っている場合では無かったと思います。とはいえ、その辺り、“面白さ”をどこに見るか、というのはまた、作品によっていきますし、作り手もまた、ある制約の中で、“どこに面白さを見せるか”という所に腕の振るいようが出てきますが。感想でも触れましたが、『フラッシュマン』は過渡期の作品で、負け方が下手。
で、そういう流れを受けて2000年に、意図的にもう一つの方向性を目指し、そこにブレイクスルーの活路を見出したのが、傑作『仮面ライダークウガ』。
原点回帰と原典破りを絶妙にブレンドしたこの作品では、再び、名も無き一般人がざくざくと死んでいきます
そして死ぬ事によって「事件」が成立し、そこに警察が介入する。
これが2000年に『クウガ』が劇中に成立を試みたドラマ性と、それに付随する新しいリアリティでした。
……と見ると、『クウガ』というのは90年代を踏まえて、70年代の遺伝子を正しく甦らせようとした作品だったのだなぁ、と改めて。基本的に『クウガ』には、特撮に新しいリアリティを持ち込もう(警察が出てくればリアル、というわけではないので注意。問題は警察という舞台装置をどう使うか、というのが“リアリティ”)、という意図があるのですが、特撮史を俯瞰したスタッフの歴史観が正しく反映されている、というのが今考えても実によく出来ています。
以前にTwitterid:toroneihttps://twitter.com/#!/toronei)さんとのやりとりで、


@toronei:昔は世界征服を企むから無条件で悪。それと戦う正義の味方は、世界征服を企む悪の組織と戦っているだけで、「愛国無罪」も真っ青なぐらい蛮行が許されていた。
という辺りの話をした事があるのですが、80年代に入って“世界征服を企む絶対悪”vs“その対立概念としての正義の味方(だから何をやってもある程度許される)”という構図が成立しなくなってくる、というのは、時代背景とかその他諸々の要素もあるのでしょうが、上述してきた“悪の組織の変質”というのは一枚噛んでいるのでしょう。ここで注意したいのは、“悪の本質”は変わっていない事で、上で例にあげたメスも相当に酷い悪の組織なのですが、その表現の仕方が変質している。
このテロと紙一重の正義の話は、本格的にやりだすと長くなるなので、今回は割愛。
加えて、昨夜ちょっと出た話で、

@toronei: 80年代前半までの特撮ヒーローって、月光仮面か黄金バッドなんですよね、下敷きが全部。
@gms02: そうなんですよねー、それを踏まえて、80年代の“悪の組織の変質”というのが、ちょっと面白いなぁと。
@toronei: 多分、ヤマトとガンダムの影響なんでしょうね。
というのは恐らく面白い所を突いていて、この後、全体的に“個人の情念の物語”から段々と群像劇志向になっていくというのは(キーとしての戦隊物、というのはありますが)、やはりその影響があるのかと思われます。
で、70年代にはなぜ、“個人の情念”でヒーローが成立していたかというと、明確な「悪」が規定されているので、それと対立するだけで、「正義」がオプションとしてついてきた。故に、ヒーローの時に身勝手な情念の部分が正義とミキシングされて劇中での説得力を有する、という構造が成立していた。
ところが「悪」の側が変質する事によって従来の形での「正義」が振るいにくくなると、面白い事に、ヒーローの側が変質を余儀なくされた、というのが、たぶん80年代以降の流れ。
この辺りはもっと資料がないと語りきれない所はありますが、80年代は極端な話、戦隊物とメタルヒーローだけ抑えれば大体の流れは掴めるけど、70年代がカオスすぎて(笑)
“個人の情念の物語”というのは、特撮史を俯瞰する上で、一つ面白い視点かもしれず、この観点で作品比較をしてみるというのもまた、面白いアプローチは出来そう。おそらく『超人機メタルダー』(87')の挫折と、その後のレスキューシリーズへの移行、というのはそういう時代性への挑戦と齟齬の産物なのかなぁ、とか。あと途中で視聴の継続を断念したのであれですが、『仮面ライダーBLACK』(87')なんかは複数の点で時代の中継点に位置する作品なので、色々と踏まえた上で分析にするには面白い素材だったかもしれない。
なお、70年代の正義v悪の構図は、『ウルトラマン』(66')『ウルトラセブン』(67')及び一部のやりすぎた作品が“正義”について踏み込みすぎた為のカウンターの部分もあるのですが、その反動は30年ばかり引きずる事になります。
余談になります脚本家・井上敏樹は、“正義の味方”と“それ以前の個人”の関係性をテーマにしている節があって、『鳥人戦隊ジェットマン』(91')〜『超光戦士シャンゼリオン』(96')〜『仮面ライダーアギト』(01')と書いていくのですが、お互いがお互いのメイン作品にサブ参加するなど交友の深い荒川稔久がメインライターを務めた『クウガ』の主人公が、“正義の味方”を終える事で“個人”へ戻る旅に出る、というのと90〜00年代におけるヒーロー像の対を成しているのは、実に重要で興味深い点。
あと付記として、個人の情念の物語、と、キャラ物群像劇、は両立しえないかといえばそんな事も無い筈なのですが、これは単純に難しくなるというのもあれば実写の制約という面もあり、考察していくと色々と出ていく所かな、と。
この辺り全部、繋がっているので絡めて考えると面白いよなぁ、という思いつきの話でした。