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“人間”としてやれること

“物語の理想の着地点”を「分かり合う」に置く事は罠である
という話を思いついたのですが、上手くまとめられそうにないので、とりあえずメモ。
まあ簡単に言ってしまえば、「分かり合う」というのは実は物語のハードルを凄く上げるのですけれど、一見とても美しいので、ついそこに設定してしまったり、下をくぐっただけなのに飛んだつもりになってしまったり、物語そのものを破綻させる可能性を伴う危険さを秘めているのにも関わらず誘われてしまうテーマである、と。
同時に、作劇における「分かり合う」信仰というのが有るのではないかなーと。
でもそんなに簡単に行く話ではないので、結果的に人間をそれと気付かずに“都合良く”書いてしまう。
そこに危険があるのではないか、とか。
あと「分かり合う」事をゴールに置くと、その障害としての「分かり合えない」状況を設定してしまいがちになるのですが、それが物語と人物を歪めるのではないか、とか。
結果、物語のベクトルに合わせて歪みは修正されずに増大していき、見当違いの的を撃つ事になる。
少しばかり本題とずれますが、オーストラリアの馬の授業の話。


「馬を擬人化してはいけない。馬は私の気持ちをわかってくれてるとか、私のことが好きだとかそんな風に考えてはいけません。なぜなら馬はそんな風に考えもしないから。私達が考えないといけないことは、今馬がどんな状態かどんな気持ちかということです」
〔「馬は賢くない」急所をつく授業に感銘/スポニチアネックス〕
という辺りの感覚と論理は、もしかしたら国民性というのも多少あるのかもしれない。
実際にわからない以上、通じているのか、通じていないのか、個人的にはどちらにも与しませんが。
ただ、擬人化する事によって生じる過信が危険に繋がる可能性がある、という理屈は理解できます。
そういえば、『ウルトラマンティガ』なんかは、最終的に「怪獣と分かり合おうとする」という、凄い迷走へ突入していたような記憶が。
究極的な理解の隔絶の物語、というと小説『ソラリスの陽の下に』(S・レム)とかSFの世界には古典としてありますが、まあ、その辺りまで行くと、存在としての性質が違いすぎるので、また別のテーゼを含んでくるわけですが。
ポスト・エヴァ後のポップカルチャーの領域に私がイライラしていたのは多分、「コミュニケーション」と「相互理解」が同一の地平で語られているからかもしれない、なんていう事を思いついた。「相互理解」まで辿り着かなくてもコミュニケーションは取れる筈なのだけど、「分かり合えない」ものは「コミュニケーションも取れない」し、「コミュニケーションが取れる」なら「分かり合える」という構図は、気持ちが悪い。
この辺りが、富野理論で言う所の「身体性の欠如」という事なのかもしれない。