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この前の話の続きから少し論を飛ばしてみる


あと欧米のファンが、芸能人やスポーツ選手に対して、プロとしてのファンサービスとかを厳しく義務付けたり、優れた才能を持った人に対して、それを免罪符に社会性がないということを許さないのは、エンタメにおいて受け手と送り手の間に日本のようなカーストが薄いからというのもあるかもしれない。
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まあ、どうしても文化的土壌という問題が出てこざるは得ないのかなとは思うのですが、「スポーツ」という概念がある程度、舶来のものであるという点も含め、もともと日本文化の中で
プロフェッショナル = 不可侵の敬意の対象
という傾向は強いのではないかと思います。
その分、ジャンルのトップに居る内は良いですが、ちょっとでも足を踏み外すと集中砲火を受けがちな傾向もありますが(^^;
この「タブー」論というのは“日本におけるスポーツ”を語る上では重要な要素かと思うのですが、まともに検証しようとすると非常に大変そう。
ちょっとぶっ飛んだ話をすると、日本の中央競馬が基本的に土日のみの開催なのって、あれは意図的に「ハレ」の場を形成しようとしているのかなぁとか最近思っているわけで(もちろん、色々と複合的な事情の産物であるでしょうから「結果的にそうなっている」という方が適切でしょうが)。競馬場行くと実感するのですが、G1なんかは誰が見ても「祭」になっていますが、普通の開催でも「プチ祭」なんですよねー、空間的に仕切られている。
まあ、時々出がちな話における競馬サークルの人達の妙な特権意識(具体的には知らないが一部のライターさんが書いている事がある)、というのは実はこの「ハレ」の世界の延長線上で形成されているのかもなぁとかも思ってみます。毎週毎週、仕事=祭の神輿(みたいなもの)、をやっていたら、それは日常のバランス感覚が狂うよなぁと。競馬サークル=ハレの世界が当たり前の日常になってしまって、ケの世界から来る人々と接触する際の感覚的なズレというのは生じるのかもしれない。
もう少しこのとんでも方面で話を広げると、実は日本のスポーツイベントというのは概ね「ハレ」でして(勿論、原義的にも間違ってはいないわけですが)、というか多分、スポーツという概念を取り込むにあたって「祭」と融合させるのが一番てっとり早かった或いは気質にあっていた結果かと思うのですが。無論、西洋で「祭」的性質が無いのかといえばそんな事は無いと思うのですが、おそらく日本ほどその傾向は強くない筈。この辺りは是非、西洋のスポーツに詳しい方いれば、話を聞きたい所だったりもするのですけど。
まあ、例えば西洋的スポーツでもF1見ていると、あれはいかにも「ハレ」だよなぁとは思うのですが、それこそ年1回、週末に来るものですし。
でまあ、日本でありがちな
「頑張っている選手を批判するな」
というのは
「ハレの側をケの側から貶めるな」
という所に繋がるものがあって、要するに祭のタブー意識の延長線上にあるという解釈は成り立たなくもないかなぁと思ってみるわけです。だから、「祭」の規模が大きくて非日常に近付くほど、前者の意見が強くなりがち。
で、たぶん日本で、ケの世界で成立している唯一のスポーツイベントが「プロ野球」。この点、プロ野球を根付かせた人々達は純粋に凄いと思います。今、それに近付きつつある(もうなっているといっても良いかもしれない)のが「サッカー」でしょうか。
ちなみに典型的なその逆、まさに「ハレ」真っ盛りなのが「甲子園野球大会」。しかも地域対抗のおまけつき。要するに、地区対抗喧嘩神輿。加えて神輿を担ぐのは(建前上)無垢な青少年。と考えるとまあ、日本人が「甲子園」好きなのよくわかるなーと甲子園野球大会大嫌いの私は自分で自説に納得してみる(笑) 
うーんしかしこの理屈で言うとあれですね、より祭礼性を高めた「女子甲子園野球大会」など開催してみたら、(色々な意味で)本家より人気が出るかもしれない(笑)
……ああ、当初に書こうと思っていた話と全然違う話が長くなってしまいました(^^; まあ、これはこれで書いていて面白かったから書いている側としては全然問題なし(おぃ)
−−−−−
で、当初書こうと思っていた話。
これはまあもともとの持論なんですが
プロスポーツ選手は「職人」であるよりも「芸人」であるべき
だと思っています。
「職人」とか「芸人」とかいう言葉の定義付けからしてちょっと難しいですが、もちろん別にコメディアンになれとかそういうわけでなく、もう少し広義の芸人。「芸を売る」というニュアンスが欲しいというか、やや極端な例を出すなら、「大道」と上につけてしまっていいかもしれません。
曖昧な横文字を使うなら、「パフォーマー」とでもいいましょうか*1
自分のための芸ではなく、人を楽しませる(喜ばせる)為の芸。
というか、その為に芸をするという事。
日本のプロスポーツ選手及びそれを取り巻く環境というのは、どうもこの認識が薄いよなぁと。
真剣勝負を否定する気は無いですし、職人的スタンスの人が居ても良いとは思いますが、そもそも「誰の為に何をするのか」というのを忘れているというか考えてないというか、考えなくても良いと思っている人が多いのではないかと思うのですが、「プロ」という看板背負っている限りは、考えなくてはいけないと思うのですよね(もちろん、根っこが「自分の為」なのはOKなのですよ。世の中大概そうですし。でも同時に、世の中大概、“本音”と“建前”も区別つけてるわけで)。
それこそ最近では、スポンサーの事を考えているというのはあるのでしょうが、一部アマチュアの人達の方がよほどサービス精神旺盛というか、本質的なプロ精神を持ち合わせているような気がします。
でまあ、ここが誤解のある所というか最初に戻るのですが、私はプロであるからこそ、「技」を「芸」とするべきだと考えております。「寡黙な職人的ナルシズムは正しい」という風潮は正しくないと思っているのです。
真剣勝負とパフォーマンスを両立させてこそプロ
だと思うのですよね。
実はちょっとそういう話で最近がっかりしているのがヤクルトの古田で、チーム状態悪くてそれどころではないというのもまあわかりますが、せっかくプレイングマネージャーなのだから、もっと何か積極的にネタを提供してほしいのですよね。そしてそのネタを(面白ければですが)、ある意味では“受け入れる度量”、というのがファンの側にも必要だと思うのですよねー。退場絡みなので誉められたネタではないですが、持ち芸を持ち芸として使う事に躊躇のない広島のブラウン監督とか、そういう点では一定の評価をして良いと思いますし、未だにグータッチをやり続ける原辰徳もアリだと思うのですよ。野球ぐらいケの世界に来ているものならば、むしろもっとエンターテイメントするべきであって、古田には特にその辺りを期待していたんですけど実は。
まあ、一つネックなのは、その辺りの事をほとんどの“解説者”の人達が全くわかっていないという事で、何故あの人達は、放送席で一人ネガティブキャンペーンを張り続けるのか。TVの向こう側の私達は、“楽しく”見たいのですよ。
まあ多分これは現役選手のファンサービスと根っこが同じ問題で
“自分の言いたい事を言う”>“見ている人達を楽しませる”
であって、そもそも意識ないんでしょうけどね。
ただ、やや余談になりますが、以前にロッテのファン感謝祭イベントに行った事があって、その時にサイン会の列に並んだのですが、選手にサインを貰った人が、ほぼ誰一人としてお礼言わないんですよ。さすがに見かねて、後ろの事務?の人が「お礼は言いましょう」と声をかける始末で、全部が全部そうだとは思いませんが、まあ、意識はお互いに持たないと駄目だよなぁとは。
……て、加速度的に話がとっちらかって本題がわからなくなってまいりましたが(我ながらこのフレーズを使うのも久々な気がする)、こういう論理の展開をしている時に、最後の方によく書いている話(プロ野球解説批判)を持ってきてしまうのは非常に下品&下策なので、まともな文章を書こうと思うなら、ぐっとこらえてやらないように!
以上、唐突文章講座でした(待て)
まあそれはともかく(しかし今日は珍しく脳内の文章回路に栄養が回っているなぁ、なんか懐かしいノリだ)、えーあれです、言い方をもう一つ作ると、
「周辺環境に大事にされる」
のではなくて、
「周辺環境を大事にする」
意識って大事だよなぁと思うわけです。これ勿論、社会的に自分を律する、というのも含まれます。別に全面肯定して唯々諾々と受け入れろ、というわけでは無いのですが、その辺りの折り合いをつけていくというのはまあ、普通に世の中出ていれば誰でもやっている事なわけで。……あーなるほど、つまるところは「プロスポーツ選手はハレの世界の人である」という感覚からまず取り払っていかないと解決しない所はあるのかなぁ。受け手側がそもそも「ケの世界の考え方で縛ってはいけない」、みたいな捉え方をしている限りは、この辺りのバランスは修正されにくいという事になるのか。
ただこれに関しては、取り払うべきかどうか、という問題も出てくるとは思いますけどね。私はその立場ではないですが、日本的スポーツ観はそれで良いのだ、という考え方もあり得るとは思います。
でまあ、日本のエンタメ業界におけるこの辺りのバランスの悪さというのが、おりたさん言う所の
送り手を尊敬しすぎてしまうというのも、あまり受け手としては健全じゃないのかも知れない。
という点に繋がる話ではあるのかな、と。
これは日本において「最大の敬意の表現」が「不可侵の対象にする事」という傾向が強いが故に、更に問題になる所なのでしょうけど。まあこの辺りは広げると恐らく“美意識”とかそういう所に突き当たって果てしなく深く掘っていく羽目になりそうなのですが(^^;
今は鶴嘴が無いのでここまで。
……て、「ツルハシ」って「鶴の嘴」という事だったのか!!
なんか妙に納得。
長文の最後に一つ賢くなって得した気分です。

*1:まあこの言葉も「舞台芸術を演ずる人」というれっきとした意味はあるのですが