はてなダイアリーのサービス終了にともなう、旧「ものかきの繰り言」の記事保管用ブログ。また、旧ダイアリー記事にアクセスされた場合、こちらにリダイレクトされています。旧ダイアリーからインポートしたそのままの状態の為、過去記事は読みやすいように徐々に手直し予定。
 現在活動中のブログはこちら→ 〔ものかきの繰り言2023〕
 特撮作品の感想は、順次こちらにHTML形式でまとめています→ 〔特撮感想まとめ部屋〕 (※移転しました)

そして原作を読み始める

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

まあ、知識的にほとんど空白という所も含め(世界史の授業などほぼ綺麗さっぱり忘れていますよ、はっはっは)興味はあったのですが、意を決して『坂の上の雲』の原作に手を出し始めてしまいました。
なんか舞い戻る度に呟いていますが、やっぱり、司馬遼太郎は面白いなぁ。
面白いから、仕方ない。
司馬が凡百の歴史小説家と一線を画すのは、
物語としての地の文・現代から俯瞰した視点・史料からの引き写し・資料に基づいた推測・完全な虚構
の、見事なまでの渾然一体ぶり。
とにかく下手な歴史小説書きは、史料に基づいた部分と虚構の部分の落差が激しすぎて、「小説」として読んでいて醒める、辛い。
それに対して司馬遼太郎は圧倒的に虚実の絡め方が巧みであり、「講釈師見てきたような嘘をつき」という小説技術において、達人という他ありません。
無論それには良し悪しがあり、「虚構」と「現実」の境目を読者に誤解させ、あたかもフィクションが事実であったかのように思わせる危険性を伴うものではありますが、その危険性を我が身に戒めた上でなお、司馬の小説における「ああ、こんな事を言ったかもなぁ」と思わせる力は、物凄い。
一方で司馬遼太郎が面白いし優れていると思うのは「事実の力」に重きを置いている事であり、時に虚構を交えて「小説」という手法を取りながらも、現実に対する過剰な装飾というのを、あまりしない。ゆえにリアリティが生まれ、時に現実は、下手な虚構より遙かに劇的である、という事をも教えてくれる。
近年の歴史小説家がどうにも駄目だなぁと思うのは、物語部分をドラマチックに書こうとしすぎる事で、結局、そこが歴史から浮き上がってしまう。浮き上がった上でそれを「面白い」と読書に思わせるだけの、フィクションの力も持っていないという事。
この点において、司馬遼太郎以後で、「面白い小説」としての歴史小説をものしたのは、やはり隆慶一郎をおいて他になく、フィクションの力により、史実の裏の事実を塗り替えようとも言わんばかりの隆慶一郎の手法と筆力を思うに、その作家生活の短さが、繰り返し惜しまれてなりません。
少なくともあと5年書いてくれていれば、歴史小説というジャンルに、もう一つの流れが出来ていた筈。
なお、司馬遼太郎作品の小説としての欠点を挙げておくと、特に長編において、前半で気張りすぎて、後半、あれ、ここで終わっちゃうの? みたいな形で盛り上がりきらないままに終わってしまう事が、ままあり。これは事実を過剰に装飾しないという作風ゆえでもあり、あと、「書きながら○○について考えてみたい」なスタンスが割と多いので、「ここまで書いてきたが、どうやらこんな感じのようである」という無敵オチを技として持っている、というのもあるのですが。
『覇王の家』(家康の話)なんて、小牧長久手の戦が細かく書いてあったと思ったら、その後は物凄い駆け足で終わってビックリでした(笑) まあ、『関ヶ原』という長編を別に書いていたりしますし、新聞連載などの事情もあるのでしょうが。
まあしかし、このレベルの作家が、精力的に多くの作品を残したという事は本当に有り難い。